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目と耳のいい作家

目と耳のいい作家

文:江南 亜美子 (書評家)

『お別れの音』 (青山七恵 著)


ジャンル : #小説

 「新しいビルディング」で、先輩社員との最後の日、マミコは彼女のせんべいの食べ方を観察し、こっそり自分も真似をする。そして、向かいの建設中のビルの名前に関して、「ヒグチさんなら、知ってるかと思って。よく見てるから」との彼女からの問いには、無視をきめこむ。一方的な観察者であったはずのマミコの、自分がなにを見ているかを見られていたことに対するわずかな動揺が、さらりと、しかし的確に描きだされていて、はっとする。

 「お上手」でも、視線の非交差が、恋を遮断する。〈横長の鏡の前で、セーターの色といつもとまるきり同じようにした化粧の具合を心配しながら、あの男のことを考える。誘われて男と食事に行く自分と、同じ時間にひとりきりで他人の靴修理をするあの男を、鏡の前に並べてみるのは、悪くなかった。悪趣味な想像だとは思ったけれど、その後ろめたささえ、悪くなかった〉いくら想起しても、鏡にうつるのは自分の姿でしかない現実。まなざしの非対称性……。

 本書にはこれら二篇の他にも、大学の食堂で働く主婦が、いつもわかめうどんを注文する女学生を熱心に観察し、さらには尾行まで行なったことで、ひとり妄想を膨らませていく「うちの娘」や、かつての同級生との間にメールのやりとりだけで恋心を再燃させた男が、三年ぶりに再会した彼女に思いもかけなかった事実をつきつけられる「役立たず」や、言葉の通じないナディアと通訳役の友人とのスイス観光中、腹痛に見舞われ続けた男の旅の記録「ファビアンの家の思い出」などが収められているが、そのいずれもが“目に見えるもの”と、妄想や記憶を含む“イメージ”とがせめぎあう瞬間をとらえている。

 視線とは、つまるところ、関係である。大きな起伏ある物語が構築されないかわりに、人と人とがある関係性を紡ぐさまが、繊細なレース編みのように描かれている。平凡な登場人物たちが、なにかを見つめ、感情をわきたたせ、関係を築きながら、しかしそれは必ずしもハッピーエンドとならずに、消えていく。あるいはよく知っていたはずの人間のまったく知らなかった一面を垣間見て、他者の不気味さを実感する。

 こうした小さな調和と非調和の運動こそ、人間の営みの本質だと思い出させてくれるのが、本書の魅力なのだろう。視線からはじまったある関係性の行く末をじっと見届ける探偵のような目と、その関係性が消えゆく際のちいさな音も聞きもらさない調律師のような耳を持ち、その推移のさまをユーモアをまじえて小説として定着させつづける青山七恵は、一見した作風の印象とは逆に、頑固で、不穏当で、そして言語表現の難しさに挑む作家(チャレンジャー)なのではないだろうか。だから彼女の小説は、面白い。

お別れの音
青山 七恵・著

定価:1300円(税込) 発売日:2010年09月29日

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