――三十年間で変わったもの、変わらないものをあらためて発見して、ご自身で驚かれたりしたことはありますか。
矢作 七〇年代の初めにニューヨークに行った時、不思議に思ったことがあります。高速道路にしても日本よりはるかに大きいし、インフラも全然優れているわけだけど、全部古いし汚ないんですよ。でも、考えてみれば不思議でも何でもない。日本の高速道路が新しかったのは、できたばっかりだったということと、その頃の東京にはニューヨークほど車が走っていなかったから。今見ると、排ガスで真っ黒でしょう。三十年の違いって実はそれだけのことなんですよ。新しいものができて汚れるだけのこと。汚れる時間の問題なんです。
むしろ、新しく作られたものよりも、やはり三十年前からあったもののほうに驚きを感じます。例えば、東急文化会館。今年ちょうど閉鎖されてしまったけど、六八年当時もあったのか、と。中に入ってみると昔のまんまだった。二階、三階のあたりなんか結婚式場の案内ブースだとか、割烹着をきたおばさんがやっているような美容院が残っていたりとか。映画の看板だって変わっていない。ある種、異様ですよね。
――そういえば、主人公は映画のシーンをリアルに再現していますね。記憶が冴えているというか……。
矢作 三十年間、中国でそのことしか考えていないからね。映画の記憶ってなくならないでしょう。自分の記憶はどんどんなくなっていくのに、映画の記憶はなくならない。あれはどうしてなんだろう。不思議ですね。
――「彼」のほかにも、当初は主人公になるはずだった傑や瀬島など、一癖も二癖もありそうなキャストが登場します。
矢作 この小説の中には、いわゆる普通の人が出てこないんですよ。傑にしても瀬島にしても、みんな非常に意志的に国境を踏み外している。そういう人間を描きたいなあと思っていたんです。
――一方、女性に関しては特に年が離れた妹と妻。どこか似たところがありますね。
矢作 妹と妻については、要するに映画のダブルキャストのようなことをやりたかったんです。一人二役という感じにしたかった。映画を見ている人間は同じ人間じゃないかと思っているのに、出演している当の本人は別人のように振舞っている。
――連載の途中で9・11がありました。あの事件のインパクトは相当なものがあったと思うのですが、小説の中で変更を余儀なくされた点はあったのですか。
矢作 当然、いろいろと悩みました。あの事件を彼にどのように受け止め、消化させればいいのか。でも結局変更しなかったんですよ。いいやと思うまで時間はかかりましたけどね。結局、彼はこういうこととあまり関係なく生きているんです。一九六八年で彼の時間はある意味止まっているわけだから、むしろ当然の成り行きに見えたかもしれない。世界人民がアメリカ帝国主義と戦っていて、戦いはますます苛烈になっていくというふうに思うんじゃないでしょうか。
この半世紀のアメリカが、ソ連を失っていよいよ露(あらわ)になったというだけのこと。だから、あえて9・11のことを書く必要もないと思ったんです。
――今、おっしゃった通り、彼の時計は一九六八年、学生運動の真っ盛りのところで止まっているとも言えます。
矢作 そうなんですよ。彼はそのまま大人になってしまった。言ってみれば、五十歳の少年なわけです。