2014.01.14 文春写真館

「演歌の星」藤圭子の一瞬の煌めき

文・写真: 「文藝春秋」写真資料部

「演歌の星」藤圭子の一瞬の煌めき

 昭和四十五年(一九七〇年)のヒットチャートは、〈演歌の星を背負った宿命の少女〉藤圭子が席巻した。前年発売したデビューシングル「新宿の女」は八十三万枚を記録。つづく「女のブルース」は百五万枚、「圭子の夢は夜ひらく」百二万枚、「命預けます」が七十万枚。デビューアルバム「新宿の女」は二十週連続一位、セカンドアルバム「女のブルース」も十七週連続一位で、計三十七週連続一位に輝いた。

 藤圭子は、昭和二十六年、浪曲歌手の父、盲目の三味線弾きの母の間に、三人きょうだいの末っ子として生まれた。昭和四十三年に上京するまで、一家は厳寒の北海道や東北を、興行主に請われるまま歌い、流れ歩いてきたという。

 タレント・中山千夏は大ブーム渦中の昭和四十五年、藤圭子を〈泣いて、泣いて、泣いて涙も枯れ果てて、ぽかんと青空見上げたような顔している。何か、知らない方がいい秘密を知っちゃったような顔している〉と描写した。(「週刊文春」八月三日号「天下の美女」)

 しかし、翌年、運命は暗転する。シングル第六弾「さいはての女」のセールスは奮わず、八月には歌手の前川清と結婚するものの、わずか一年で破局を迎える。肉親間のトラブルも頻発した。

 昭和四十九年には、喉のポリープの切除手術を受けるが、その影響で大きな特長だった、低くドスのきいた声質が変わってしまう。

〈「喉を切ってしまったときに、藤圭子は死んでしまったの。いまここにいるのは別人なんだ。別の声を持った、別の歌手になってしまったの……」〉(沢木耕太郎『流星ひとつ』)

 昭和五十四年に芸能界からの引退を表明、アメリカに渡る。そして昭和五十八年、ニューヨークで出産したのが、のちの宇多田ヒカルである。

 平成二十五年(二〇一三年)八月二十二日早朝、東京・西新宿の高層マンション前で倒れているところを発見される。飛び降り自殺と断定された。享年六十二。

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