2015.05.03 書評

吉村昭『羆嵐』のモデルとなった三毛別事件の真実を生々しく綴る大傑作ノンフィクション

文: 増田 俊也 (作家)

『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』 (木村盛武 著)

 本書は北海道開拓時代に起きた三毛別ヒグマ事件――一頭の巨大ヒグマが一週間にわたって開拓部落を襲い、七人を食い殺して三人に重傷を負わせた凄惨な事件を、克明かつ詳細に綴った記録である。

 事件は、冬眠に失敗して餓えた凶暴なヒグマが、開拓部落の一軒の家を襲ったことから始まる。預かり子の幹雄は一撃で撲殺され、阿部マユが血まみれにされて熊に咥えられ山に連れ去られた(後に大半が食された無残な死体が土中から発見された)。

 この事件を受け、最終的に北海道警のほか、陸軍歩兵連隊、消防組、青年団など、官民合わせ延べ六百人、アイヌ犬十数頭、鉄砲六十丁もの大討伐隊がこのヒグマに挑んでいく。しかしヒグマは吹雪と暗闇にまぎれ執拗に開拓部落を襲撃し、一人、また一人と人間を食い殺す。万策尽きた人間たちは殺された仲間の遺体を囮にしてヒグマをおびき寄せるという最終手段に出たが、ヒグマはそれをあざ笑うかのように人間たちを翻弄していく。いったいどうしたらあの悪魔を倒せるのか――。この稀有なモチーフとリアルな描写で、本書は日本文学史に永劫語り継がれるであろう大傑作ノンフィクションとなっている。

 私自身、この事件をモデルにして書いた『シャトゥーン ヒグマの森』(宝島社)という小説で十年ほど前に作家デビューしている。新人賞受賞を目指す作品で、なぜこの事件をモチーフにしたのかというと、人間による過去のどんな殺人事件を調べても、この三毛別ヒグマ事件の前にかすんでしまったからだ。シリアルキラーによるどんな猟奇的な連続殺人事件も、このヒグマによる食害の凄惨さに比べたらかすんでしまったからだ。

 戦前の高専柔道の流れをくみ旧帝大の七校だけに伝わっている寝技中心の七帝柔道をやるために私が北海道大学へ入学したのは、一九八六年(昭和六十一年)、二十歳のときのことである。

 自伝的小説『七帝柔道記』(KADOKAWA)にかつて書いたように、きっかけは愛知県立旭丘高校時代に名古屋大学柔道部員に入部勧誘を受けたことだった。

 あれを読んだ方に「どうして名古屋大学ではなくて北海道大学を選んだんですか」とときどき聞かれるが、その理由こそ、北海道大学ヒグマ研究グループ(略称クマ研)の存在にあった。

 このクマ研は一九七〇年代、北海道大学の学生たちによって設立された任意団体だ。簡単にいってしまえばサークルのひとつなのだが、この団体が長い間かけて世界のクマ研究界に果たした功績は計り知れない。農学部、水産学部、理学部などのさまざまな学部を横断し、当時ほとんど知られていなかった野生ヒグマの生態をフィールド調査中心に行っていた日本唯一の団体だった。

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慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件
木村盛武・著

定価:本体610円+税 発売日:2015年04月10日

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