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徳川二百六十余年の平和を現出させたバックボーンこそが、『黒書院の六兵衛』

徳川二百六十余年の平和を現出させたバックボーンこそが、『黒書院の六兵衛』

文:青山 文平 (小説家)

『黒書院の六兵衛』 (浅田次郎 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

 私が、二百六十余年の平和を現出させたバックボーンこそが、『黒書院の六兵衛』であるというのは、そういうことです。むろん、二百六十余年の平和の理由が単一であるはずもありません。しかし、その体幹には、武家という種族の精神性の高さ、武家政権ならではの“良きもの”があったと思います。ローマ帝国や、六百年つづいたオスマンの帝国を見ても、そこで暮らしたいと思わせるものがあったから、あれほどの版図を築き得た。圧政や、単なる技では、二百六十余年は望むべくもありません。

 そのように、『黒書院の六兵衛』の正体を、二百六十余年の平和を現出させた武家政権ならではの“良きもの”、武家という種族の精神性の高さ、と捉えると、的矢六兵衛の様子や、さまざまな相手に見せる態度、そして相手の反応にもいちいち得心がゆきます。

 たとえば、六兵衛は誰が見ても感嘆する偉丈夫ですが、「六兵衛の手は七十翁のそれよりよほど老いて」います。二百六十余年の平和の集積の果実だから、老いているのです。

 十六代徳川宗家を継いだ幼君、徳川家達公に対したとき、六兵衛は礼を尽くし、幼君に請われた通りに薬を服しますが、物は言わず、黒書院を退くこともありません。六兵衛は精神性であり、“良きもの”なので、現実の職制の上下を超越するのです。

 最後、「聖上(おかみ)」に無言のまま向き合い、「真向から龍顔を仰ぎ見た」六兵衛は、とうとう黒書院を離れますが、それは次代の為政者に、長き平和を保つための“良きもの”を託したからでしょう。託すまでは、誰がどう説こうと、離れられるはずもなかった。

 江戸城を後にしようとする六兵衛を目にした西郷隆盛が、(六兵衛はたいそうな侍だ。まさかこんな幕切れになるとは思わなかった。われわれはこれからどうすればよいのだ)と言うのも同じで、長き平和を保つための“良きもの”を託されたからです。果たして自分らに継げるのかと、困惑しているのです。

 そして、なによりも、六兵衛は最後の最後になって、視点人物の加倉井隼人を抱き寄せ、「世話をかけ申した。許せ」と言い、「物言えばきりがない。しからば、体に物を言わせるのみ」と言う。それは、尾張藩江戸屋敷の御徒組頭にすぎない、しかし、徹頭徹尾、生真面目に動く隼人に、みずからを、即ち、長き平和を保つための、武家ならではの“良きもの”を見い出していたからでしょう。

 他にも大村益次郎のあしらいなど、さまざまなエピソードで腹に落ちると思うのですが、さて、いかがでしょう。

文春文庫
黒書院の六兵衛 上
浅田次郎

定価:748円(税込)発売日:2017年01月06日

文春文庫
黒書院の六兵衛 下
浅田次郎

定価:748円(税込)発売日:2017年01月06日

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