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第12回 いま、できることのすべて

第12回 いま、できることのすべて

川上 未映子

 そして、あべちゃんだって、そうだった。あべちゃんだって、もう後もどりはできないのだ。そして、わたしとあべちゃんの関係も、確実に変化するのだ。こんなふうにふたりで過ごすのは、過ごすことができるのは、どうしたって、あと2ヶ月なのだな。まだ想像が追いつかない頭のなかでそんなことを思うと、なんだかしゅんとしたような容赦のないまっすぐな風がすっと吹き抜けるようなそんな気持ちになった。いま、最後のふたりのためにできることってなんだろうな、とそんなとりとめのないことを思ったりもした。

 できるだけ喧嘩をしないこと。日々を楽しく過ごすこと。たくさん話して、お互いが考えていることを、できるだけ伝えること。相手のすべてをあたりまえと思わずに、努力しなければならないことが、やまほどあるような、そんな気がした。

 わたしたちは、人生の折り返しのこの時期まで違う場所で、違う相手と違う生活を送ってきた、正真正銘の他人なのだ。その他人が、なぜだかこうして一緒にいて、赤ちゃんを迎えて、これからたぶん、経験したことのない、わからないことばっかりの激動の日々を一緒に乗り越えてゆかなければならないのだ。

 そんな大変な日々に飛び込むまえに、「ふたりでもっとちゃんと作りあげなければならなかったものがあるんじゃないか」と思うとものすごく不安になって、そうかと思えば、「いや、そんなのは意味がなくて、人生はお手本なしの応用のみ、こうして出会って赤ちゃんを迎えられるということだけで、もうじゅうぶんじゃないか」というつよい気持ちにもなったり、とにかく両方の気持ちがマーブル模様になって、そんなふうにゆれていると、お腹のなかから赤ちゃんが、元気よくぼんぼーんと蹴るのである。その感触にわたしははっとして、元気ー? と話しかけてみると、ただの偶然なんだけど、でもタイミングよくまたもやぼんぼーん、と蹴るのである。

 あれこれと気持ちのことを悩むのも必要だけれども、でもこれ以上ないくらいにたしかなことがひとつあって、それは、わたしのお腹には、ここには赤ちゃんがいる、というそのことだった。このまんまるのお腹のなかには赤ちゃんがいるのだ。そして、わたしはこの子に会うのだ。会いたいのだ。あたりまえのことなんだけど、そう思うと、どこからともなく、泣きたいような、思い切り笑いたいような、そんなよくわからないけれどちからとしか言いようのないものが、たしかに湧いてくるのだった。あと2ヶ月。あと2ヶ月。気づけばそうつぶやいて、もういろいろまかしとけ! どーんとこい! みたいな気持ちになって、待ち遠しいような、面映いような、そんなふうにして夜はすすみ、そして朝になるのだった。

きみは赤ちゃん
川上未映子・著

定価:本体1,300円+税 発売日:2014年07月09日

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