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裏切ることば

裏切ることば

文:阿部 公彦 (英文学者)

『しょうがの味は熱い』 (綿矢りさ 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

 読者の中には、誤解している人もいるかもしれない。すべてがその中には詰まっているのだと……弱冠十七歳での華麗なるデビュー、容姿端麗、頭脳明晰、あふれる才能。彼女の本を手に取れば、そんな香気の一端を味わえるのではないか、と。

 いや、小説ってそんなものじゃないでしょう、と否定したいところだが、ちょっと待てよ、とも思う。そんな虚像が出回っていることは作家本人も重々承知なのだ。「綿矢りさ、結婚!」は即座にメディアのトップニュース。イメージは依然として肥大しつづけている。そうした現実をすべて引き受けた上で、なお、負けずに“ちゃんと小説家である”とはどういうことなのか。そこにこそ作家の挑戦がある。そして『しょうがの味は熱い』にはその秘密がぎっしり詰まっている。

 本書に収められた二篇の連作の筋立ては、一見、きわめて地味なものだ。描かれるのはカップルの同棲。メーカー勤務の絃の家に奈世が転がりこむ。絃は今一つ仕事がうまくいっていないが、辞める決心はつかない。奈世との関係は、はじめからあったずれがだんだんと顕在化しつつある。奈世の方はぴたりと絃に寄り添おうとするが、「こんなに近くにいるのに、近くにいる気がしない」などと思う。そして、ついに奈世は「この部屋を出て行こう」という決心をするが……という展開だ。

 派手な出来事があるわけではない。せいぜい置き忘れたヘアピンが錆びてシンクが汚れたとか、男が「家賃、はらって」と言ったとか、喧嘩した後、女が実家に戻ってちらし寿司を食べたとか、お父さんの昔のベッドカバーが青かったとか。

 でも、だまされてはいけない。

 奈世というこの主人公、かなり変な女である。絃を見つめる目にも、世界との付き合い方にもただならぬものがある。不穏なものがある。ただ、その不穏さは激しい情念となって外にあふれ出したり、暴力的に読者を呑みこんだりするものではない。

 だから、注意しないとだまされる。

 たとえば奈世は、絃のほくろを背中から太ももへ、そして尻へと眉ペンでつないでいくなんていうことをする。かわいいものだ。「隣に絃がいるのに、絃に会いたい」なんて思うのも切なくていい。「絃が生きがい」なんて口走って相手が引くのは、自分の気持ちの扱いで精一杯な証拠。相手が見えていない。でも、それが恋というものだ。

 ところが、少しずつ「おや?」と思うことが増えてくる。もともと奈世は観察する「目」ばかり先走って、身体の方がなかなかついてこない人。そんなずれの隙間から、はっとするような一節が生まれる。

 飽きたり飽きられたりすることにおびえるなんて、贅沢すぎるね。冷めた愛情というのは、まだ腐っているわけではないのに、それほどにまずい食べ物なのだろうか。ごみ箱にすぐ捨てちゃってもいいくらいに?

 これ、よく考えてみると誰が考えたことなのだろう、と思う。たぶん奈世なのだろう。何と言っても奈世は食べ物の喩えでものごとを整理するのが得意だ。絃が焼き魚を「発掘家」みたいにほじくったり、グレープフルーツの皮を一筋も残さず剥いたりするのをじっと見つめ、そこに絃らしさを確認してうっとりする人なのだ。

 でも、だんだんと奈世が、“奈世以上”の人になっていくような気もする。自分は絃の足首に「ゾンビ」みたいにしがみついているのだという奈世は、何かがおかしいともわかっている。そうして、え、奈世ってこんな人だったのかと思うような、どきっとするようなことを言う。

 やっと自分専用の水飲み場を見つけて、飲んだ水が指の先の細胞まで行き渡ってもまだ、涙となって外に流れ出てもまだ、顎を上向けたまま蛇口の下を離れずにいた。飲みこぼした分が内股で座っている脚を濡らしても、周りが呆れて誰もいなくなっても、身体が冷たくなってもまだ動かない。まだまだ飲みたりないのに水は枯れてきて細くなり、一滴でも逃がさないように舌をつき出している。

 たいしたことは起きていないのに、この波乱ときたらどうだろう。まるで奈世自身のことばが奈世を更新していくうちに、小説があらぬ方向に迷いこんでしまったかのようだ。想像と妄想と現実との境目がはっきりしなくなってくる。

 でも、ここでも油断してはいけない。

 綿矢りさは裏切りの名人だ。うっとり幻想にひたらせてくれなどしない。わかった気になどさせてはくれない。いつも居心地の悪い違和感が差しこまれるのだ。ちょうど、寝入りばなの絃が、奈世によっていやらしく起こされつづけるように。

 綿矢りさをきちんと読むためには、ことばの端々にうめこまれたそういう違和感にいちいち反応する必要がある。そこを読みたい。たとえば絃の寝姿の次のような描写は、うっとりできる「いい話」とも読める。

 絃は上掛けをだんごに巻きつけていくのではなく、眠りながらよくこんなに器用にできるなと感心するほど、逆円錐状に身体に沿って巻きつけていくので、足の方が先細りで腕も肩も隙間なく包まれている。彼の後ろ耳、エジプトのミイラみたいに布の巻きついた身体のなだらかな曲線、本当にかすかな寝息。

 でも、絃を愛おしむような奈世の「目」が、「逆円錐状」なんて表現を使い、いつの間にか絃を「ミイラ」に仕立てあげているのはどうだろう。病気だと困るからいびきをかいたらおこしてくれ、と絃に頼まれたのに、「私はいびきをかいているぐらいの方が彼が生きていることが分かって嬉しいので放っておく」というのはどうだろう。そういう描写の直後で、「沸騰したら紅茶茶碗に注いで、カモミールのティーバッグを溶かす」なんていう一節があると、「溶かす」という語の微妙なずれに、わけもなくヒヤッとしたりする。

 ここではいったい何が起きているのだろう。奈世はわかっていない、鈍い、と絃は思っている。奈世の方は、絃が自分と同じものを見ていないと寂しく思っている。典型的な男女のすれ違いだ。でも、それだけではない。奈世の「目」は愛情にあふれ、これでもかと絃にまとわりつくけれど、そこには愛で盲目になっているのとはちょっとちがう、冷たい目が紛れこんでいる。にもかかわらず、彼女が絃にこんなふうにしがみつくというのは何だか妙だ。そこが怖い。そして、すごく魅力的でもある。

 絃とは違い、奈世はふたりのベッドでもよく眠れる。「絃が眠ってしまったこの世界にはもう何の用もないことを、身体が知っているせいだ」という。そして、そんな奈世に対し、起きがけの絃が吐くのが、この小説の数少ない大きな出来事の一つ、「家賃、はらって」の一言なのだ。その皮肉なインパクトときたら……。

 奈世、すごいなあと思う。参りました。絃はまな板の鯉だ。

 前半の「しょうがの味は熱い」はそんなふうに終わる。さて、二篇めの「自然に、とてもスムーズに」。これから奈世はいったい絃をどうしてしまうのだろう。固唾を飲んでページをめくる。

 しかし、ここでも私たちは裏切られる。

 奈世はすっかり心を入れ替えたのか、妙に愛想がいい。さっきまでの内へ、下へと内向していくような語り口とは打って変わり、ですます調が軽快だ。これまでの奈世は絃をじっくり見る分、読者とは目も合わせないような人だったのに、こんどは「ねえ、聞いてくださいよ」と言わんばかり、熱のこもった口調でどんどんしゃべる。

 でも、この「どんどん」がくせ者だ。ですます調によって解放されたことばは、するするっとにこやかでなめらかだが、決してゆるくなったわけではない。「絃、結婚してください」と婚姻届を突きつけられて絃が怯えたふうになると、奈世は「彼はこんなにも身内な私から、一体何を守りたがっているのでしょうか」などとさらっと言ってのける。関節がぐいっとやわらかく締め上げられる感じ。その威力は相当なものだ。

 いよいよ別れ話の場面。出来事の少ないこの小説の数少ない「山」、いや「丘」くらいなのだが、せいぜい婚姻届に勝手に名前を書いたの書かないのという程度の話なのに、絶妙の書きぶりでことばがするするっとつながり、目のまわるような展開感が生まれる。

 こうして彼を追いつめるたびに、私は彼のその決して大きくはない小ぶりな愛情のかたまりを、かつおぶしのようにかんなで勢いよくけずっています。でもどうしても、自分を止められないのです。(中略)

 左腹の下の部分が痛みはじめました。最近ストレスがかかる度に痛みが走り、お腹がゆるくなります。身体の内側から喉にむかって、すきま風の通り抜ける音が聞こえて、耳をすますとそれは風ではなく、私自身の泣く声でした。

 はっとするところだ。このことば、いったい誰が語っているのだろう。奈世のことばは――そして時折挿入される絃の語りもそうだが――自らを裏切る。奈世も絃も、そうやって自分自身のことばによって書き直され、作り替えられていく。それもこれも物陰に隠れた冷たい目が、彼らの見ている以上のものを見つづけているからだ。

 あともう少しがんばれば、幸せになれるかもしれない。でも愛や結婚は、あともう少し、と努力するものでしょうか。

 終わり近くにこんな一節がある。何の変哲もないことばと思えるかもしれないが、この作品をずっと読み進めてここにたどりつくと、クラクラッとするほどの衝撃を受ける。不思議だ。それほど凝った表現ではない、冷蔵庫の残りもののようなことばなのだが、それが翼を生やして飛び始める。まさに小説の醍醐味だ。

 

 大きな年譜だけを見ると、デビュー以来、順調に作品を発表してきたように見える綿矢りさだが、ところどころに沈黙の時期がある。この沈黙はまさに「金」だと思う。作家はどのように“書かないか”によって、つまり沈黙のとり方によってこそ成長し、変貌を遂げる。

 考えてみれば『しょうがの味は熱い』に収められた二つの短篇は「文學界」二〇〇八年八月号、二〇一一年一月号の掲載だから、間が二年以上あいている。もちろん、その間に作家が完全に沈黙してしまったわけではなく、別のものを書いていたわけだが、少なくとも「『しょうがの味は熱い』を書く綿矢りさ」にはある時期、長い沈黙があった。その沈黙ががらりと語り口の変わる、しかし、たしかに通ずるところのあるこの連作に結実した。

 裏切りは、こうして時間の経過によって引き起こされる。時間がたつうちに何かが変わってしまうのだ。同棲するふたりの気持が刻々と変化するように、綿矢りさの作品世界でもことばは変化し、心変わりする。物語の進行とともに、ことばがことばを裏切り、語り手を裏切り、作家を裏切る。冒頭で触れたように、作家綿矢りさの“虚像”を否定するのは簡単だが、そんなことよりも、そもそも作家というのは虚像と格闘するのが仕事だということを思い出すほうがずっと大事ではないかと思う。

文春文庫
しょうがの味は熱い
綿矢りさ

定価:583円(税込)発売日:2015年05月08日

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