2012.05.30 インタビュー・対談

エッセイの「私」と
小説の「貫多」は同じなんです。

聞き手: 「本の話」編集部

『随筆集 一日(いちじつ)』 (西村賢太 著)

エッセイの「私」と<br />小説の「貫多」は同じなんです。

――『随筆集 一日(いちじつ)』は西村さんの2冊目のエッセイ集になりますが、前作『随筆集 一私小説書きの弁』との違いは、受賞エッセイ数篇をはじめ、芥川賞受賞後に書かれたものが入っているということです。受賞前と後では、かなり大きな変化があったと思いますが。

「変化があったのは経済的なことだけ、極論すればそれだけです。やっていることも生活のリズムもほぼ変わっていません。強いて言えば依頼原稿が増えたことぐらいですね。前は当てのない原稿ばかりでした。夜11時頃から書き始めて、興が乗らなければ途中で酒を飲んだりしていましたが、今は3時、4時まで机に向かって書き続けます。そこも少し変わりましたね。ようやく人並みに近づけたという感じです」

――書くことに対する姿勢も変わらないというわけですね。

「変わらない部分と、意識して変えていない部分があります。まわりには受賞を機に変えなければいけないという人もいます。変わる人がいてもいいと思いますが、あえて変えないということもあっていい。変わらないことも案外に大変なんだということを身をもって証明したいんです。変えてしまったら私小説でもなんでもなくなってしまう部分があります。僕は伝統芸としての私小説をリスペクトしてますから、それに沿って書いていきたいんです」

――小説と随筆を書くことの違いはどんなところにありますか。

「僕の場合は枚数ですね。小説は50枚といっても多少の増減は許されますが、エッセイは5枚と言ったら5枚。それだけの違いだと僕は思っています。たとえばミステリを書いている人が随筆を書くとスイッチが切り替わることはあると思いますが、僕の場合はエッセイでは“私”。小説も“貫多”即ち“私”。変わりようがないです。いいことなのか悪いことなのかわかりませんが」

――小説における貫多と随筆の「私」の間には違いがあると思ったのですが。

「同じです。延長線上です。エッセイ専門に書いている人の文章は鼻につくことがありますが、意識しているとすれば、そういう文章を避けているということでしょう。僕はエッセイの中に「些か」や「はな」とかいう言葉を多用してますが、小説でも使います。つまり僕の語彙が少ないっていうことですし、書き分けられないんです」

――所収の随筆は様々な媒体に書かれていたものです。それぞれ文体も違っているように思います。

「東スポに書いた「いろ艶筆」(「色慾譚」と改題)は初めての連載でした。枚数も1回2枚半で、これは鍛えられたと思います。この随筆以降は文章も変わってきているかもしれません」

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随筆集 一日(いちじつ)
西村賢太・著

定価:1523円(税込) 発売日:2012年05月30日

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