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『墨攻』解説

『墨攻』解説

文:小谷 真理 (評論家)

『墨攻』 (酒見賢一 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

 さて、墨家の男・革離が、梁に赴任するや否や、かの国は驚くべきスピードでその姿を変えて行く。墨家の方法論の特殊さや軍事技術の面白さには感嘆した。しかもその改革をたった一人でやりとげてしまうのだから、革離のかっこよさは推して知るべし。

 実は本書は、一九九二年には、漫画家・森秀樹氏の手によって漫画化され、さらに二〇〇六年には、日本・中国・韓国・香港による合同で、映画化もされている。漫画版は、本書同様、質実剛健な渋い描き方だが、映画版は、革離を人気俳優アンディ・ラウが演じていて、黒ずくめの衣装が、いかにも墨衣といった風情で素敵だった。

 もちろん原作では、身なりもかまわず、食物摂取にも厳しすぎる描写である。これは実際の墨家たちは質素で厳しい耐乏生活に身をおいていた事実にもとづく。これだけ課していく背後には、この戦闘技術集団には、独特の宗教観のようなものがあったのかもしれない、と思う。そうでなければ、支えきれない気がする。

 本書でも、そうした微妙なところが、革離の作戦の綻(ほころ)びとなってくる。象徴的なのは、いうまでもなく、梁王とその寵妃(ちょうひ)の関係だろう。

 ふたりを結びつけるのは、もちろん普通の家族愛に通じる男女の営みなのだが、革離は「兼愛」の人なので、あくまで墨者の掟を押し進める。そもそも、革離が斬新すぎる戦略家だな、と感嘆するのは、女も一人前の兵士として扱うというところだ。この時代の女性の扱いとしてはあり得ないことだと思うし、徹底的な男女平等社会の探究にも見える。もちろん、戦時を控えた労働力不足では使えるものはなんでも使わねばならないというのだろう。なんと、寵妃たちも一人前の労働力として扱われることになった。女から兵士へ。でも、これって男並みってことでは? と、なかば小気味よく、なかばハラハラしながら読んでいたのだが、はてさて、彼女にとって、労働力として生きるのと、寵妃として生きるのと、どちらがよかったのだろうか? それとも、所詮男に命じられるままの人生を送っていただけ、なのだろうか?

 全員が平等に一丸となって大国と闘う、という墨者の方法論。だが、墨家という戦闘思想集団を考える上で、女という矛盾に満ちた存在は考えさせられた。その矛盾を、どう解決するべきなのだろうか?

 墨者は、ひとりではなく、集団である事が最大の強みであろうが、本書はその強みを剥奪された墨者の姿を通して、墨守の意味も考えさせられる。そう。歴史上あんなにも影響力をほこった墨者が、なぜあっという間に消え去ったのかという謎に挑戦しているような気がしてならない。

 ともあれ、本書『墨攻』は漢字を多用しながらも、シンプルで読みやすく、実に奥の深い作品である。21世紀の現在であってもなお魅力的であり続ける酒見賢一の傑作が、ふたたび書店に復活したことを、心から祝福したい。

文春文庫
墨攻
酒見賢一

定価:594円(税込)発売日:2014年04月10日

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