2015.06.12 書評

貫井徳郎の果敢な挑戦

文: 内田 俊明 (書店員・八重洲ブックセンター勤務)

『新月譚』 (貫井徳郎 著)

 九年前に断筆宣言をした幻の美人作家・咲良怜花は、咲良の大ファンである若手編集者・渡部敏明に再デビューを依頼される。咲良作品に対する渡部の熱意に心を許した彼女は、誰にも語ったことのない自らの半生を、渡部に語り始める……。

 咲良怜花の本名は後藤和子。若いころはコンプレックスの塊のような、内気なOLだった。対人関係が原因で大手企業を退職し、再就職の面接に行った小さな貿易会社で、そこの社長である木之内徹と運命の出会いをする。採用された和子は、ほどなく木之内と深い関係になる。だが一人の女性と付き合うだけでは満足できない性格の木之内は、和子の思いをよそに、何人もの女性と浮気をし続け、和子の高校以来の親友である川村季子とも関係を持つ。ついには季子が妊娠し、木之内は季子と結婚してしまう。和子は深い絶望の中で、木之内の会社を退職する。それでも彼女は絶望から生まれた暗い情念を糧とし、別人になって人生をやり直そうと、小説を書きはじめる。だが木之内のことは忘れられず……。

 こうしてストーリーを書き出してみると、本書『新月譚』はまるでメロドラマの王道のように見える。しかも上のあらすじではあえて触れなかったが、かつて男に愛されたことのない自分を、木之内にふさわしい、もっと高みにいる存在にしたいという思いから、和子はある「思いきった行為」も行なう。男女関係は人間関係の中でも特に上下がつきやすい。まして女は、作中でもくりかえし語られるように、男以上に容姿が人物の評価に作用するのが現実だ。こういう男女関係の卑俗な部分を真正面からとりあげ、見方によっては男にとって“都合のいい女”のようにも見える和子の物語で、貫井徳郎は何を描きだしているのか。

 まず、和子がいわゆる“都合のいい女”ではないことは、次の和子の述懐からわかる。

「自分が貪欲だと自覚したことはなかったが、言われてみれば確かにそうなのだ。わたしは木之内を貪っていたのかもしれない。木之内から吸収できるありとあらゆることを、まだまだ欲していたのかもしれない。木之内が秘めている未知なるものを吸い尽くす前に別れてしまったから、こんなにも未練が残っているのだ。他の男では、木之内ほど刺激を与えてくれないから。」(二四八~二四九ページ)

 和子が木之内に求めているのは愛情だけではないのだ。和子が自己実現をはたすための材料を与えてくれる男、それが木之内だから、彼に惹かれているのだと、ここで和子ははっきりと言っている。その自己実現が何によってなされるのかを、苦しみぬいて考えぬいたあげく、和子は生まれ変わって、文芸の道を選ぶのだ。

 木之内は、和子が新人賞を受賞してデビューしたとき「和子には特別な才能が眠ってると思ってたよ。」と言う。たしかに出会った当初から、木之内は和子の個性を褒めている。誰にも認められたことがない和子にとって、それはこの上ない喜びだった。その喜びを与えてくれた木之内に応える、というのが和子の最初の変貌の動機になるのだが、しかし、彼女が決定的な変貌を遂げるのは、木之内によってもたらされた絶望――つまり木之内と季子との結婚――と、それから自分を解き放つためだった。生まれ変わった別人となり、新たな世間からの評価を得ながら、木之内との関係を続けていくことで、彼から得られる自己実現の材料をも受けとり、和子は作家として成功への道を歩みはじめる。

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新月譚
貫井徳郎・著

定価:本体820円+税 発売日:2015年06月10日

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