どこが、「いいこと」が書いてないだ。書いてあるじゃないか、と、思うでしょ。しかし、続きがあるのだ。
「博奕(はくえき)なるものあらずや。これを為すは猶(なお)已(や)むにまされり」
先生は続ける。バクチというものがあるではないか。あれでも、何もせずにごろごろしているよりはずっといいのだ。
驚くべし。孔子は、「飽食終日」の弟子たちに、さらに、バクチをやれと薦めているのだ。
論語に「いいこと」が書いてあると思っている人は、まさかこんなことが書いてあるとは思わない。実は、彼らは論語を最後まで読んでいない。先の言葉が出ている陽貨篇は論語全二十篇の第十七篇なのである。仮に最後まで読んだとしても、「いいこと」を求めている人は、バクチで頭の体操をするという、通釈書によくある解説でなんとなく納得してしまう。しかし、ちょっと文化人類学の知識があれば、古代においてはバクチは神意を知る神聖な行為であったことがわかるだろう。I・ベルイマンの『第七の封印』に主人公が死神とチェスをするシーンがあったことを思い出していただけばいい。
雍也(ようや)篇には、こんな話もある。
「子、南子(なんし)を見る。子路(しろ)よろこばず。夫子(ふうし)これに矢(ちか)って曰(のたまわ)く、予(わ)が否(ひ)なる所のものは、天これを厭(た)たん、天これを厭たん」
孔子の故国の隣の衛(えい)の国では、王妃の南子に芳しからぬ噂があった。妖艶なのはいいが、それを通り越して奔放淫蕩なのである。美男の愛人もいる。そんな南子が、孔子に会いたいと言う。いったんは絶(ことわ)った孔子だが、二度の申し出に絶りきれず、南子と会った。剛毅な弟子、子路は、孔子が南子と会ったことが不快である。なんであんな不徳義な女と会われるのですか、というわけだ。これに対し、孔子は矢を折って誓って言う。私がまちがったことをしていたら、天が許さないだろうと。
誓う時に矢を折るのは、当時の風習で、神かけて誓うということだ。しかし、弟子の詰問に対し、師が神かけて誓って答えるだろうか。その上、「天これを厭たん、天これを厭たん」とくり返すところが、なんだかどもっているようにとれはしないか。
どうも何かあったのではないか、とするのが、司馬遷の史記であり、谷崎潤一郎の『麒麟』である。
「いいこと」を求めずに読んでみると、論語は本当はすこぶる面白いのである。
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