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新米同心vs大奥出身の尼僧 時代小説のあらゆる魅力がつまった逸品

新米同心vs大奥出身の尼僧 時代小説のあらゆる魅力がつまった逸品

文:西上 心太 (評論家)

『老いの入舞い 麹町常楽庵 月並の記』 (松井今朝子 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

 そして時代は寛政七年(一七九五年)と明記されていることにも注目したい。九代将軍家重に見出され、十代将軍家治の治世で異例の出世を遂げたのが田沼意次だった。田沼は明和六年(一七六九年)に老中格になって以来、重商主義を取り積極的な経済政策を進めた。だが浅間山の大噴火による飢饉などが手伝い、ついに天明六年(一七八六年)に失脚する。後を継いだのがその翌年に老中首座となった松平定信である。定信は奢侈を禁じた倹約政策などを進めるが、世間の不人気もあり寛政五年(一七九三年)に失脚してしまう。つまり本書で描かれる寛政七年は、定信失脚の二年後にあたるのである。

 最後のキャラクターであるが、本書を支える重要な実在人物として登場するのが、北町奉行小田切土佐守直年である。直年はこの物語の三年前、すなわち寛政四年(一七九二年)に奉行を拝命し、文化八年(一八一一年)に亡くなるまで奉行の任にあった。生涯現役を続けたわけであるから、よほどの名奉行だったのだろう。

 麹町という場所、定信失脚後の寛政年間という時代、北町奉行小田切土佐守直年という人物。これらはいずれもこの物語と不可分に結びついている。

 

 物語の中心視点人物となるのが、北町奉行同心の間宮仁八郎である。二十四歳になる仁八郎は、見習いから本勤並の定町廻り同心に昇格したばかりの新人だ。受持ち区域は麹町から赤坂一帯である。仁八郎は内与力から「御前じきじきの仰せ」として、平河天神社近くにある常楽庵という庵に、見廻りのおりおりに立ち寄るように命じられた。

 常楽庵の庵主は大奥で高い役職を務めたという尼僧だった。三十年近く大奥勤めをしているはずなのに、肩のあたりで尼削ぎに切りそろえた髪はつややかで、しわもなく肌つやもよい顔つきの、年齢の見当がつかない不思議な雰囲気の女性だった。気が進まないまま庵を訪ねてみれば、庵主からは志乃という実の名で呼べなどと、仁八郎はいたく気にいられた風である。だが仁八郎から見れば庵主の志乃は、「蒸かしたての饅頭に細筆でさっと目鼻を刷いたような顔」の女中梅の井や、大柄で膂力のある「色黒の大きなお盤台面」をした下女ゆいを眷属に従えた、八百比丘尼の化け物に見えてしかたがないのだった。

 常楽庵では近隣の商家の娘たちを集め、女の寺子屋として行儀作法などを教えていた。ある日、出入りしていた呉服屋の娘が庵からの帰路に行方知れずになるのが巻頭の「巳待ちの春」である。常楽庵で開かれた「巳待ち」の催しが、娘の失踪の契機になっていることを知った仁八郎は心穏やかでなかった。ところが庵の玄関先に残されたあるものから、庵主は見事な推理を組立てるのだ。

 こうして商家の離れで病身の当主が焼死した事件の真相を暴く「怪火の始末」、庵の近くにある平河天満宮門前の茶屋娘殺しの悲しい顛末が明かされる「母親気質」、大名屋敷の女中奉公から宿下がりした商家の娘の斬殺された遺体がお堀で発見される「老いの入舞い」の四編が、移りゆく四季の情景とともに描かれていく。

【次ページ】

文春文庫
老いの入舞い
麹町常楽庵 月並の記
松井今朝子

定価:858円(税込)発売日:2016年07月08日

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