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新米同心vs大奥出身の尼僧 時代小説のあらゆる魅力がつまった逸品

新米同心vs大奥出身の尼僧 時代小説のあらゆる魅力がつまった逸品

文:西上 心太 (評論家)

『老いの入舞い 麹町常楽庵 月並の記』 (松井今朝子 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

 いうまでもなく町奉行所は武家や寺社には手出しが出来ない。ここに麹町という町の特殊性が浮かび上がる。半蔵門から西に向かってほぼ真っ直ぐに延びる道が甲州街道である。麹町はこの街道沿いにある。だが江戸の切絵図をご覧になれば一目瞭然だが、この付近の町地は街道に沿った細長い一角だけで、麹町の北隣の番町は旗本・御家人の屋敷が櫛比し、南側の永田町界隈は御三家紀州藩など大大名や大身旗本の屋敷が並んでいる。武家が関連する事件が起きても決して不自然ではない土地柄なのだ。仁八郎は潔癖な若者らしく、お家大切を第一にする武家の論理によって謂われなき被害を受けた無辜の町人たちにいたく同情する。だが下手人を追うことが出来ない現実に直面するたびに、無力感に苛まれてしまうのだ。そして年の功で泰然自若に構えているように見える庵主に、その苛立ちをぶつけてしまう。そんな仁八郎の姿は、庵主に遠い日の記憶を甦らせるものでもあった。

 老いの入舞いとは舞楽が終わり、舞い手が退場する時、いったん舞台に戻り、あらためて舞を披露しながら楽屋に戻ることをいう。庵主は大奥という毎日気の休まることのない場所で長年を過ごしてきた。そのため当時はなにごとにも心を煩わされない平穏な日々を過ごせることを待ち望んでいたのだ。ところがいざ庵を構えてみれば、そこに「退屈という名の、とんだ落とし穴」が待ち構えていたのである。そこで大奥時代にも鋭い観察眼と人の心理の機微を読む能力によって数多の悶着に対処してきた《名探偵》の能力を、《老いの入舞い》のように発揮するのである。もちろん、庵主の琴線を震わせる存在である仁八郎の手助けという側面も大きいのであるが。また庵主の取り柄は頭脳だけではない。「老いの入舞い」ではへなちょこ武士では到底かなわない、見事な腕の冴えも見せてくれるのだ。血飛沫で染まった白衣に薙刀を構える庵主の姿は、実に格好いい。

 田沼時代は表の金だけでなく裏の金も動いた時代だった。賄賂が横行し派手な生活に浸った記憶が忘れられない品下がった武士のありようも、一連の事件の遠因ともなっている。そういう意味でも本書は寛政年間という時代である必要がある。また庵主が大奥を辞めた理由も、神経質で口うるさい老中松平定信に逆らったためであるらしい。頭脳はもとより外見からは想像もつかない腕と度胸の持ち主なのである。

 二〇一六年六月には本書の続編となる『縁は異なもの』(文藝春秋)が刊行された。こちらも本書同様、寛政八年の四季を通じた四つの話が描かれている。この中で、常楽庵庵主志乃の過去の詳細や、小田切土佐守直年との関係が語られるほか、仁八郎の身の上にも変化の兆しが現れる。

 そうそう、うっかり言い忘れたが本書にはもう一人、当時の江戸で誰一人知らない者がいないほどの有名人が、常楽庵の隣人として登場するのも趣向の一つだ。続編にも顔を見せるが、この人物は実に印象的。それが誰かはお読みになってのお楽しみということで、明かさないでおくとしよう。

 本書は真っ直ぐな気性の若手同心と、人生経験豊富な元大奥女中の庵主という異色な取り合わせの捕り物小説だ。しかしそれだけではない。人情の機微をすくい取る巧みな市井小説の要素もあり、剣戟小説としての凄味も最後に浮かび上がる。また江戸の移ろいゆく四季の様子がたっぷりと活写されている点も、大きな魅力になっている。まさに時代小説のあらゆる魅力を合わせ持った逸品といえるだろう。

 常楽庵庵主の《老いの入舞い》が、長く、長く続くことを期待したい。

文春文庫
老いの入舞い
麹町常楽庵 月並の記
松井今朝子

定価:858円(税込)発売日:2016年07月08日

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