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最新の研究成果をふまえた、恐ろしいほど正確な城の描写

最新の研究成果をふまえた、恐ろしいほど正確な城の描写

文:千田 嘉博 (城郭考古学者・奈良大学 学長)

『水軍遙かなり』 (加藤廣 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

 守隆と天下人との出会いの舞台となった城の描写も、最新の研究成果をふまえて恐ろしいほど正確である。たとえば天正七年(一五七九)に守隆が安土城に信長を訪ねた冒頭の出来事は、『信長公記』巻十二の記述をもとにしている。『信長公記』によれば「(天正七年)正月五日、九鬼右馬允(嘉隆)堺の津より罷上(まかりのぼ)り、安土御山にて年頭の御礼申上ぐる処、今の透に在所へ罷越し、妻子見申候て、頓(やが)て上国仕るべきの旨、忝(かたじけな)くも御暇(おいとま)下され、満足候て、勢州(せいしゅう)へ罷下るなり」と記した。つまり嘉隆が一旦鳥羽城(鳥羽砦)に戻ったことは、史料で確認されるのである。

 鳥羽城に戻った嘉隆は、守隆を伴って改めて安土城を訪ねることになったが、七曲(ななま)がり道から城へ登っている。もちろんこうした細部までわかる記録はない。しかし安土城の七曲がり道は、安土山の西斜面を登った道で、琵琶湖の内湖に近い位置にあった。嘉隆の安土屋敷が、船の便のよい琵琶湖の内湖の近くにあったという推測は的を射ている。

 安土城の中心部に到着した嘉隆と守隆は、本丸御殿ではなく、安土城天主の一階にまねかれている。公式な謁見の場であった本丸御殿ではなく、より親密な面会の空間であった天主で、信長と守隆が地球や暦について語り合ったとする設定はみごとである。信長は天主を御殿の一部として用いた。天主一階は信長が政務を執った空間で、入室できるものは限られた。信長が本丸御殿ではなく、天主に守隆を招き入れて面談したのは、守隆との会話を信長が特別に楽しみにした心情を、みごとに表している。

 嘉隆と守隆の居城であった三重県鳥羽市の鳥羽城は主要部が残り、古い石垣を随所に見ることができる。鳥羽城は直接海に面し、海に向けた門を備えた。本丸には高欄をめぐらした三重の天守があった。発掘調査によって、嘉隆・守隆時代にさかのぼる十六世紀後半の石垣を地下から発見している。

 水軍の城についても、近年研究が進んでいる。北条水軍の拠点のひとつとして本書に登場した静岡県沼津市の国史跡長浜城跡は、発掘の成果をもとに整備を行っている。長浜城は内浦(うちうら)湾に突き出した山上にあり、堀や土塁で守りを固めていた。城内には簡素な兵舎があって、海に面した城の周囲や麓の川岸に船を留めることができた。城からの眺めは抜群で、ことに沼津港の向こうに富士山がそびえる景色はすばらしい。

 興味深いのは江戸時代に城跡が「魚見(うおみ)」の場所として使われたことである。おそらくこの山は古くから湾に入った魚群を発見する魚見台であったものが、戦国時代には敵の艦船を発見・迎撃する水軍の城になり、そして江戸時代になると、もとの魚見台に戻ったということだろう。長浜城にも関わった地侍の大川家が伝えた膨大な古文書は、「豆州(ずしゅう)内浦漁民史料」としてよく知られ、たいへん貴重なものである。

 江戸幕府が成立し、家康と語り合った海外進出戦略論が夢物語となった晩年の守隆にとって、海はどう映っていたのだろうか。目の前に海があり、いつでもこぎ出せる唐様式と南蛮様式のくふうを施した外洋船があるのに、水平線の向こうへはもう旅立てない。父嘉隆とともに幾多の犠牲を払いながらつくり上げた時代の帰結として、海の自由を失ったとすれば、守隆の苦悩はなんと痛切だっただろうか。

水軍遙かなり 上
加藤廣・著

定価:本体680円+税 発売日:2016年08月04日

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