戦争と投機
大富豪となってからも、ソロスは贅沢にはまったく興味を示さなかった。ある晩餐会の席で、隣に座った婦人から、「お金儲けが好きだと気づいたのはいつか」と訊ねられ、「金儲けは好きではありません」とソロスは答えた。「ただ、うまいだけです」
ドイツ生まれの妻とのあいだに3人の子どもをもうけ、莫大な富を手にしながらも、ソロスは自らの人生に満足することができなかった。48歳で家を出て小さな家具つきアパートを借りると、そこに服を詰めた数個のスーツケースと何冊かの本を運んだ。
その後、ソロスは近くのテニスコートで若い女性と知り合った。その女性と再婚することになるのだが、ソロスから「自分はウォール街で成功した富豪だ」と打ち明けられたとき、彼女は「絶対ペテン師だと思ったわ。小銭も持っていない男だってね」と決めつけた。
1992年、ソロスは大規模な通貨取引を仕掛け、ポンドの暴落で10億ドル(当時の為替レートで1200億円)の利益をあげ、「イングランド銀行を打ち負かした男」として世界に衝撃を与えた。1997年のアジア通貨危機では、マレーシアのマハティール首相から通貨暴落の元凶として名指しで批判されてもいる。
その一方で世界有数の富豪となったソロスは「開かれた社会(オープンソサエティ)」のための財団を設立し、冷戦終結後の東欧の民主化に貢献した。ソロスが慈善事業に投じた資金は80億ドル(約8000億円)を超えている。
ソロスは金融市場で大きなリスクをとることで、とてつもない成功を手にした。彼が投機を恐れなかったのは、少年時代のブダペストでの体験があったからだ。ヒーローである父の指揮下で死体の散乱する街を駆け回ったあのわくわくする日々を、ソロスは取り戻そうとしていた。
だが金融市場からどれほどの富を得ても、ソロスの渇望が癒されることはなかった。金融取引のリスクなど、ほんものの戦争と比べればしょせんまがいものでしかないのだ。
この数奇な体験を紹介したのは、ソロスが“ふつう”ではないからだ。一生使い切れないほどの富を得た後で、さらに血眼になって金儲けをしたいとは私たちは思わない。ソロスが投機を求めるのは、それなくしては生きていけないからだ。
金融市場は人類が生み出した史上最大のギャンブル場で、そこでは“ふつう”でない人々が仮想取引(ヴァーチャルゲーム)に己の実存を賭けている。だがその絢爛豪華な舞台装置にばかり目を奪われていると、大切なことを見落としてしまう。金融市場は、私たちの人生の経済的な土台(インフラ)をつくるものでもあるのだ。
それが、“ふつう”のひとのための「億万長者入門」を書こうと思った理由だ。
参考文献:マイケル・T・カウフマン『ソロス』(ダイヤモンド社)
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