広岡知男は明治四十年(一九〇七年)、大阪市生まれ。学生時代は野球選手として活躍した。旧制市岡中学時代にセンバツ中等学校野球大会、中等学校優勝野球大会に出場。東京帝大に進学し、昭和六年(一九三一年)の東京六大学野球秋季リーグ戦で首位打者に耀いた。
昭和七年、朝日新聞社入社。昭和十七年、論説委員となる。終戦後、昭和二十一年、聴濤克己労組委員長が新聞ゼネストを強行しようとするのに反対して大演説を行って中止させ、注目を集めた。大阪、東京本社の経済部長をつとめ、昭和二十九年、東京本社編集局長、ついで昭和三十一年取締役となる。昭和三十八年、村山長挙社長が異例の株主総会で永井大三常務を追放しようとして事態は紛糾し、最終的に役員会で広岡により社長解任の提案がなされ、村山社長が事実上解任される、いわゆる「村山事件」が起こる。この結果、広岡は代表取締役に就任する。昭和四十二年、美土路昌一の跡を継いで社長に就任。昭和四十六年には緒方竹虎以来空席となっていた主筆職を復活させて兼務し、朝日新聞史上初の社長兼主筆となった。
社長時代は、文化大革命の初期から昭和四十七年の日中国交回復まで、親中国的報道が「偏向」と批判された。昭和五十二年、社長を辞任、会長となるが、昭和五十五年には新社屋の完成とともに会長も退く。会長辞任は、「株主総会で認められた金額以上に役員に報酬を支払っているのは違法」と村山家から指摘されたからだという。退職金は支払われず、社員に別れを告げる機会も与えられなかった。形式的には、役員全体の責任の問題であり、村山家の意図が不明なまま問題提起されたとの不満を広岡は持ったという。
昭和五十六年暮れの定時株主総会では、現経営陣に対して、村山家問題など「爆弾質問」を行う。そして、「週刊文春」(昭和五十七年二月二十五日号)のインタビューに答えて、「私は朝日から追放された」と明言、朝日新聞大批判を展開した。
さらに、二度にわたり、内部告発の文書を朝日関係者に送るなど、前代未聞の行動に出て、朝日新聞に対する村山家の影響力を排除しようという執念を持ち続けた。
朝日新聞退社後は、日本学生野球協会会長、全日本アマチュア野球連盟会長などアマチュア野球界の要職をつとめた。
平成十四年(二〇〇二年)没。写真は昭和五十二年撮影。