2013.07.18 書評

『吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』解説

文: 中西 輝政 (京都大学名誉教授)

『吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』 (湯浅博 著)

 本書は、戦前・戦後を通じた昭和日本の「国家戦略と情報」を考える上で、絶好の評伝となっている。また、辰巳栄一という人物について、これまでは「歴史の脇役」として戦前・戦後の昭和史の一局面で時として顔を出し短かく言及されることはあったが、本格的な評伝が書かれるのが、なぜ「これほど遅く」なってしまったのか、とさえ思える重要な人物である。そこに、日本人の戦略思考やインテリジェンス問題への関心の低さ、敢えて言えば国民としての「政治的民度の低さ」を指摘しない訳にはゆかない。

 辰巳栄一については、従来、戦前期の陸軍部内で数少ない英米派として、日独伊三国同盟など枢軸外交へ傾斜する軍主流派に抵抗した人物として、また戦後は首相・吉田茂の影のアドバイザーとして再軍備問題に関わったことぐらいしか知られてこなかった。しかし本書を始めとして近年、とりわけ二十一世紀になってから昭和史の研究はめざましい展開を見せている。とりわけ、その一つに情報(インテリジェンス)が昭和史の方向を決定づけた重要な要因だったことへの認識が少しずつ深まってきたことが挙げられる。また、そのための各種史料が今日、ようやく広く利用可能になってきた。本書も、そうした大きな流れの上に立っており、その点でも、再び「大きな思考」が求められ始めたこの国の行方を考える際に、重要な一書と位置づけられる。

 本書を手に取ったとき、「吉田茂の軍事顧問」と銘打ってジャーナリスト出身の著者がものした辰巳栄一伝であるからには、殆ど専(もっぱ)ら戦後、とくに吉田内閣の対米安保(いわゆる再軍備)問題が主テーマとして書かれているのだろうと予想していたが、それは見事に裏切られた。序(・終)章を除いて全十章のうち、六章までが戦前・戦中期で占められ、戦後部分は四章という割り振りになっている。これは何を意味しているのだろう。

 たしかに主人公の辰巳栄一は日本が敗戦を迎えたとき、すでに齢五十に達していた。一方、日本が占領を脱し吉田が首相の座から降り、辰巳が活動の場から退くのは、その僅か九年後(昭和二十九年)のことだ。しかし本書を貫くテーマが国家の進路を決定する広義の情報という点にあるとしたら、辰巳を語るときこの配分がきわめて重要なのである。なぜなのか。それは、「情報(インテリジェンス)とは人間」なのだ、ということに関わってくるからである。とりわけ、激動する世界の中で国家がどの方向へ向うべきなのか、を考える国家戦略という営みに必要なのは、国の舵取りをする人間の知性(インテリジェンス)の構造に関わってく る。そしてその体得やそうした知性を備えた人間集団の育成には何十年という年月がかかり、時には敗戦といった「歴史の悲劇」と呼べるような劇的な経験が必要なのである。

 よき情報マンとなるには、それに適した人格というものが求められる。昭和の陸軍軍人の中には、いわゆる「皇道派」と分類される人脈や集団の中に、しばしば秀れた情報マンが見いだされる。それに比して「統制派」に属するエリートは、なぜか押しなべて“情報音痴”と思われる人物が多いのである。勿論(もちろん)、ここで言う「皇道派」とは天皇絶対主義を掲げて突出した直接行動に傾く過激派という意味ではない。ずっと穏健で知性的な人々、たとえば辰巳が私淑(ししゅく)した同郷の大先輩、武藤信義を始めとして、小畑敏四郎など、いずれも若い頃から対ロシア情報で頭角を現わし、満州事変以後の日本がもし南進すれば「支那の泥沼」に足をとられ必然的に英米との対立に向い、そこをソ連に背後から衝かれるというシナリオ(そしてその後の日本が現実に辿った道)を早くから恐れていた人達のことだ。実際、この大局を見据えていたのは、「広義の皇道派」に属するとされる情報将校たちであった。つまり、日本を破滅に追いやった責任はこの点を見据えられなかった統制派の盲目にこそあったといえよう。

 戦間期の世界には、すでに底流として英米vs.ソ連という「冷戦構造」が醸(かも)し出されていた。その谷間に置かれた日本は、戦前から、そのいずれかを選ぶしかないという選択に直面していたといえる。そこへ、「ナチス・ドイツ」という第三勢力(と見えたもの)がにわかに現われ、その粧いの目覚ましさに幻惑された日本人が道を誤ったのである。そしてその「ドイツ」という幻影が消えてなくなった戦後、よりすっきりと見えるようになった冷戦の構図の中で、日本が英米つまり西側陣営を選択することになったのは、きわめて自然なことなのであり、吉田や辰巳は戦前から、この「勘どころ」をしっかり押えて見失っていなかったということなのだ。

 戦後の誤った「昭和史」によって「皇道派」として十把一からげにされてきた人々の中には、成熟した人間的感性に立脚して、こうした「勘どころ」をしっかり押さえた真の情報マンが少なくない。昭和十三年にドイツやソ連から追われシベリア経由で満州国に殺到してきたユダヤ難民を人道的見地から受け入れたことで有名な樋口季一郎中将(当時はハルビン特務機関長)は、そうした「広義の皇道派」に属した人物だった。本書が詳しく紹介するように辰巳を薫陶した本間雅晴も「ヒューマニストのインテリ軍人」だったし、戦後、辰巳と手を携えて日本のインテリジェンス再建に取り組んだ土居明夫もそうした情報マンの系譜に属している。

吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一
湯浅 博・著

定価:735円(税込) 発売日:2013年07月10日

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