2013.07.19 書評

「弱い」人

文: 高橋 源一郎 (作家)

『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』 (渡辺一史 著)

 最近、「弱さ」について考えることが多い。正確にいうと「弱さ」の「強さ」とでもいうものについて。

 きっかけは、次男が脳炎で入院して危篤に陥ったことだ。彼が運びこまれたのは子ども専門の病院で、患者の多くは重篤だった。そして、次男が回復する傍らで、多くの子どもたちが亡くなっていった。

 その場所でわたしは、長い闘病生活を続ける子どもに付き添う母親たち(父親はほとんど姿を見かけなかった)の姿に強い印象を、いや感銘を受けた。彼女たちは、信じられないほど明るかったのだ。

 その理由は、わたしにもわかるような気がした。次男が回復不能かもしれないと告げられた後、しばらくしてわたしは、かつてないような強さがわたしの内側に芽生えたのを感じたからである。そして、気がつくと、わたしは、様々な場所に「弱い」といわれる人たちを訪れるようになっていた。

 この本の主人公「鹿野さん」は、「弱い」人の代表だ。「最弱の人」といっていいだろう。「鹿野さん」は、難病の筋ジストロフィーにかかっていて、ゆっくりと死に向かっていた。筋ジストロフィーは、身体の筋肉が少しずつ動かなくなってゆく病だ。そして、最後には、呼吸や拍動を司る筋肉も動かなくなる。

 わたしたちは、いつか自分たちが死ぬことを知っているけれど、そのことから目をそむけて生きている。けれど、筋ジストロフィーの患者とは、「死」へ向かうプロセスを、生きる時間のすべてで味わうことになる。あるいは、生きる時間のすべてが、「死」への道筋であることを、強制的に知らされることになる。

 そんな状況の中で、「鹿野さん」はどうしたのか。「外」で生きることを選択したのである。

「弱い」といわれる人たち、たとえば、障害者や介護を必要とする老人たちは、この国ではどんな風に扱われているだろうか。

 この本でも指摘しているように、彼らは、「施設」に入れられるか、「家族」(大半は親)の下で暮らす。彼らは、ひとりでは生きられないからだ。だが、「施設」や「家族」の庇護の下では、どれほど手厚い扱いを受けようと、そこに自由はない。そのことを知りつつ、それでも、「弱い」人たちは、「施設」か「家族」の庇護を選ぶ。いや、選ばざるを得ないのである。

「鹿野さん」は、「施設」に入ることも、「家族」の庇護の下で暮らすことも拒み、「自立」の道を選んだ。だが、それがどれほど困難なことなのかは、わたしたち健常者の想像を超えているのである。

「鹿野さん」は、介護する人がいなければ生きていけない。24時間、誰かの介護を必要としている。身体がほとんど動かない「鹿野さん」は、排尿はおろか、寝返りさえ自分ではうてないので、介助者に頼むのである。時には一時間に何度も。あるいは、自発呼吸がほとんど不可能になり、人工呼吸器をつけざるを得なくなった「鹿野さん」は、いつも痰をとってもらわなければならない。うまくとれなければ死んでしまうのだ。

「施設」にいれば、あるいは「家族」の下にいれば、彼らが世話をしてくれる。だが、自立を求めた「鹿野さん」は、介助者を自ら探さなければならなかった。この本は、そんな「鹿野さん」と、彼を支えることになった「介助者」たちの苦闘の記録ということになるだろう。

 その大半が無償のボランティアからなる、のべ1400人もの「介助者」たちが、入れ代わり立ち代わり、「鹿野さん」を訪ねる。そして、その場所、「鹿野さん」が住む家は、1つの戦場となった。「健常者」である「介助者」と、絶望的な状況で生きる「鹿野さん」との間にスムースなコミュニケーションが生まれるわけがない。

 この本を読むうちに、わたしたちは、もっとも「弱い」存在である「鹿野さん」を中心にした、この不思議な共同体に魅かれていくのを感じる。支援を受けなければ生きていけないのに、「わがまま」を貫こうとする「鹿野さん」(身体が動かないのに、エッチな映画を見に行ったり、女の子と付き合ったり、果ては結婚までしてしまう!)を見て、わたしたちは、ホッとしている自分を感じるのだ。

「鹿野さん」にとって、「生きる」ことは、途方もない重力に抗して、あるいは、凄まじい逆風に向かって進むことだった。だが、それは、「鹿野さん」だけではないのだ。ほんとうのところ、わたしたちもまた、見えない重力、感じることのできない風に逆らって生きているのに、そのことに気づかないだけなのである。

こんな夜更けにバナナかよ
渡辺一史・著

定価:798円(税込) 発売日:2013年07月10日

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