2012.12.06 傾国子女

第一回

文: 島田 雅彦

誰よりも貪欲に、正直に生きた女

1章 突然目の前にあらわれては散った美女

 神楽坂通りに面した毘沙門天の境内の石段に座り込んだその人は、通りを行き交う人々を品定めするように目で追いかけていた。遠目には三十五歳くらいに見えたが、それは着ている白いワンピースと色白の肌の効果だったようで、近くで見ると、白髪が目立ち、かなり年のいった人だとわかった。昔は誰もが思わず振り返る美女だったに違いない。佇まいにはその名残りのオーラが漂っていた。流行りのコトバでいえば、「枯れ美女」か?

 七海は彼女の前を横切り、道路の反対側に渡り、坂を下って行こうとしたが、うなじのあたりに何か強い気を感じて、振り返った。その人は立ち上がり、何かいいたげな表情で七海を見つめていた。そこに四輪駆動車が坂の下からかなりのスピードで走り込んできた。その人は車に気づかないのか、七海を追いかけるように道路を横切ろうとしていた。危ない、と思った瞬間、餅をついたような鈍い音がし、その人は宙を舞っていた。

 通行人たちはコトバを失い、その場に凍りついていた。一方通行の狭い道を時速六十キロ前後で走ってきた車にはねられたのだから、無事で済むはずがないことは誰の目にも明らかだった。しかも、彼女は体操選手のように伸身二回宙返りをして、地面に叩きつけられたのだ。 一番近くにいた七海は、仰向けに倒れているその人に駆け寄った。肘は逆向きに曲がり、両脚は「ル」の字に折れていた。即死かと思われたが、まだ息があった。すぐに携帯で救急車を呼んだ。 女性をはねた車はそのまま走り去ってしまった。通行人の若い男が走って、車を追いかけると、薬局の店主だろうか、その場にいた白衣の男が車のナンバーを控えた。誰もがひき逃げだと思った。非常識なドライバーに憤慨する声があちこちで聞こえた。だが、七海の目には、女性自ら、疾走する車に身を投げ出したように映った。

 七海が女性の顔を覗き込むと、蚊の羽音ほどの声だったが、女性はしっかりと七海の顔を見据え、こういった。

――あなた、私の若い頃に似ているわ。私の話を聞いてくれる?

まるで、自分がはねられたことに気付いていないかのように、呑気な口調で。

――話さない方がいいです。今、救急車が来ますから。

――もういいの。このまま無縁仏になるから。それより私の話を聞いて。懺悔をすれば、この身の曇りも晴れる。私の名前は白草千春……

――シラクサ、チハルさんですね。

 七海がその名前を確かめると、女性はほっと吐息をつき、空を見上げた。ややまぶしそうに目を細め、口を開いたかと思うと、そのまま動かなくなった。

 それから間もなく、救急車とパトカーが来た。救急隊員が二人、女性に歩み寄ってくる。心拍と呼吸が止まっているのを確認すると、即座に心臓マッサージと自動体外式除細動器による蘇生を試みた。その一部始終を七海は眺めていたが、彼女の顔が見る見るうちに若返り、遠目に見た時と同じ三十五歳くらいの顔に戻った気がした。皺が寄り、目尻が下がり、顎がたるんだその顔の下には、若かりし頃の美貌が隠されていて、それが死の間際になって、露わになったようだった。人は死ぬと、煩悩から解き放たれ、優しい表情になるそうだ。心の濁りが取れれば、若返るともいう。それが七海の目の錯覚だったとしても、その人はこの世を去る直前に、ありし日のことを思い出し、一瞬若返ったに違いない。

 七海は目撃者の一人として警察から事情聴取を受けたが、事故当時の状況と被害者から聞いた氏名以外には話すこともなく、三十分後には神楽坂を離れた。

 その女性、白草千春は最寄りの逓信病院に搬送されたが、その日の午後四時四分に死亡した。七海はそのことを深夜のテレビニュースで知った。

【次ページ】2章 あの「枯れ美女」が私に取り憑いている!?

傾国子女

島田雅彦・著

定価:1680円(税込) 発売日:2013年1月11日

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