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人生はやり直しがきかない、けれど……

人生はやり直しがきかない、けれど……

文:新元 良一 (文筆家)

『世界のすべての七月』 (ティム・オブライエン 著/村上春樹 訳)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

 もちろん、彼がこれまで築き上げてきた作風は、本書においても揺らぎがない。

 たとえば、本書の一編〈ルーン・ポイント〉において、同じ大学に通った不倫相手とともに出かけた旅先で、五十二歳になる人妻は、「一九六九年の、あのどたばたした理想主義と幻想」と、シニカルに学生時代を振り返る。一方で、彼女の現状はと言うと、「満足しているわけではないし、希望を抱いているわけではないし、何らかの道義的目標を目指しているわけでもない。一九六九年に、自分がそうなるかもしれないと想像した人間でもない」と、「ではない」が混在する生活を送る。

 ところが、不倫相手が湖で溺死してしまい、その事情聴取をする警官から、彼女自身も含めてリアルであるものを認めるべきだと指摘される。

 実際のところ、人妻の過去に対する思いは、シニカルでありつつロマンティックなものだ。満足はしていないけれども、だからといって、現在の生活が不満ばかりというわけでもない。夫は、“それなりに”愛情を注いでくれる。けれど、彼女は何かが欠落していると考えている。本書に登場する他のキャラクターも一様に、過去のどこかでやり残したことがあったのか、それとも、知らず知らずのうちに間違いをおかしてしまったのか、と疑念を持っている。

 五〇年代、六〇年代の日本で、学生運動に没頭した人々が昔を懐かしむように、若かりし熱狂の頃へのノスタルジックな思いを描く物語は数多いが、本書がこれらと似ているようで異なるのは、人々の現在の立ち位置をしっかり見据えている点にある。〈ルーン・ポイント〉で、先の警官が、「世界はナンセンスな回り方をしています。ひとつ事実として言えるのは、誰が非難してもしなくても、それと無関係に世界は回り続けるっていうことだ」と話すが、自分はいつまでも同じ人間だと思い込んでいても、世の中は、時代は、否応なしに変化を遂げる。

 だが、ここに出てくる登場人物たちは、その現実を直視できないでいる。熱狂し、歓喜した度合いが大きければ大きいほど、時間を隔てた今日このときが空虚に思えてくる。

 さらに始末が悪いのは、自分自身ですら変わってしまったことに、彼らは気づいていない。過去へは帰れず、人生は一からやり直しがきかないのに、人々は時間が戻ることを欲しようとする。オブライエンが言った、人生の悲哀とはそこである。

 そんな彼らを、物語の担い手となるオブライエンは突き放さない。過去との決着も決別もできないでいる人々の心情を丁寧にすくい取り、読む人間が感情移入し得る文章へと置き換える。

 日本語となった本書を読みながら、「そうだ、そうだったな」とうなずきつつ、オブライエンの書き綴った言葉をひとつひとつ噛みしめながら訳す、同時代の作家、村上春樹の姿が思い浮かんだ。

世界のすべての七月
ティム・オブライエン・著/村上春樹・訳

定価:本体829円+税 発売日:2009年06月10日

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