2015.07.22 書評

「冷酷」で「能力主義」な信長はいかにして生まれたのか?

文: 末國 善己 (評論家)

『信長影絵』 (津本陽 著)

 織田信長を主人公にした歴史小説は、枚挙に暇がない。その中でも、坂口安吾の短篇「鉄砲」、司馬遼太郎『国盗り物語』、そして津本陽『下天は夢か』は、独創的な人物造形と後の作家に与えた影響の大きさも含め、別格といえるだろう。

 太平洋戦争中の一九四四年に発表された安吾の「鉄砲」は、アメリカの物量作戦に精神論で立ち向かう日本を批判するため、三段撃ちという手法を考案して弾ごめに時間がかかる鉄砲の弱点を克服した信長を、「その精神に於て内容に於てまさしく近代の鼻祖」とした。これが、信長を近代合理主義者とした歴史小説の嚆矢となっている。

 安吾が作った信長=近代合理主義者を発展させたのが、『国盗り物語』である。司馬は、美濃を盗み取った斎藤道三を、中世的な因習を破壊した改革者として評価。新しい時代を切り開いた道三が後継者と考えたのが、信長と明智光秀だったとする。司馬は、人間の「機能」にしか興味がなく、「何が出来るか、どれほど出来るか、という能力だけで部下を使い、抜擢し、ときには除外し、ひどいばあいは追放したり殺したり」もする「すさまじい人事」を断行したのが信長だったとするが、ここには工業製品の大量生産で高度経済成長を成し遂げた戦後日本の社会モデルが重ねられていた。

 バブル景気が全盛だった一九八〇年代後半に「日本経済新聞」に連載された頃から注目を集め、単行本が大ベストセラーになった『下天は夢か』は、信長の合理精神の中でも、特に情報の収集と分析に着目している。そのため、今川義元の大軍に信長が寡兵で立ち向かった桶狭間の戦いも、大量の忍びを使って情報を集めた信長の必然的な勝利とされている。「分かるであろうがや」や「儂が申すは無策の策だわ」など尾張言葉を話す信長を描き、ローカル色を前面に押し出したことも話題となった。

 土地や株への投機熱が盛り上がっていた時期に発表された『下天は夢か』が、情報を重視する武将として信長を描いたのは、日本の社会構造が、物作りから情報のいち早い入手が損益を左右する投資へとシフトしたことを的確にとらえた結果といえる。また当時は、全国の市町村に一律一億円を交付する「ふるさと創生事業」が推進されたり、各地で地方博が開催されるなど“地方の時代”がキーワードになっていた。尾張言葉を話す信長は、こうした時代の変化を的確にとらえていたのである。

 二〇〇五年、本能寺で非業の最期を遂げた信長が計画していた壮大な政策に迫る『覇王の夢』を刊行した著者が、バブル崩壊、リーマン・ショックという未曾有の不況を経験した後に三たび信長に挑んだ本書『信長影絵』(「オール讀物」二〇一〇年九月号~二〇一二年十月号)は、『下天は夢か』とはまったく異なる、というよりも、これまでの歴史小説にも見られなかった斬新なアプローチで信長を描いている。

 著者は、「本の話」に掲載されたインタビュー(二〇一三年二月号)で、「信長を書くことはこれが最後でしょうね」と語っているので、“信長三部作”の掉尾を飾る本書は、著者の作品系譜の中でも重要な位置を占めるのはもちろん、信長を主人公にした歴史小説に新たな境地を開いたといっても過言ではあるまい。

 各地に忍びを放つのはもちろん、農民や商人と関係が深い木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や川並衆の蜂須賀小六らから庶民の生活実態や要望を聞くなど、地道に集めた情報を政策立案に活かしたり、信長が尾張言葉を話したりするのは、『下天は夢か』の歴史観を継承、発展させている。若い頃の信長は、領国の安定経営のため、藤吉郎たちの情報を基に人心掌握に気を配ったとしているところは、敵対する人間は無辜の民であっても虐殺したとされることも多い信長のイメージを覆していて興味深い。

 だが本書は、決して革新的な戦略で天下統一を目指す信長の栄光を描いているのではない。幼少期から筆を起こすことで、どのような環境が、一切の情を排除し、すべてを冷酷無比なロジックで割り切る信長の性格を形成したのかに迫っているのだ。

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信長影絵 上
津本陽・著

定価:本体600円+税 発売日:2015年07月10日

詳しい内容はこちら

信長影絵 下
津本陽・著

定価:本体630円+税 発売日:2015年07月10日

詳しい内容はこちら


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