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いおりんの名残り火

いおりんの名残り火

文:逢坂 剛 (作家)

『名残り火』 (藤原伊織 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

 このとき、わたしがいおりんを見送ったのは、当時広告業界第一位の電通に勤務する彼に、第二位の博報堂に勤務する身として敬意を表した、という次第ではない。タクシーの列に、いおりんをたった一人並ばせておくのは、業界人として(あるいは、いくらか作家仲間として)仁義に欠ける、と思ったにすぎない。

 人は通常、敬愛する相手や親愛の情を抱く相手と別れるとき、見送ったり振り返ったりするし、それが人情というものだろう。ことに広告業界は、常に得意先という大切な存在を相手にしており、そうした礼儀作法をことさら大切にする。というより、身にしみついているのだ。そのために、わたしはごく自然にいおりんを見送ったのだし、いおりんもまたそういうわたしの行為に、なにがしかの感慨を抱いたのだと思う。

 したがって本編にもどれば、そうしなかったと主張する件(くだん)の人物に、堀江が疑問を抱いたのは当然のことだった。このような、堀江の人間観察力、洞察力は、著者いおりんのそれとそのまま、重なり合う。

 いおりんの小説においては、謎も謎解きも常に登場人物の心の中にあり、物理的なトリック、不自然な状況設定などは、薬にしたくもないといってよい。ミステリーである以上に、小説としての完成度が高いのだ。たとえば、スキンヘッドの三上社長の、輝くばかりのキャラクターを見よ!三上とナミちゃんの、生きいきとした会話の躍動を見よ!まさに、小説のおもしろさとはこういうものだ、という手本がそこにある。

 あえて苦情をいえば、堀江を助ける美女大原真理の存在が、悲しすぎることだ。例によって、いおりんはこの女性を地の文で〈大原〉と、姓で呼び捨てる。わたしなら〈真理〉と表記し、彼女の女としての魅力をこれでもかとばかり、書き連ねるだろう。しかし、いおりんは前作『てのひらの闇』からずっと〈大原〉で貫き、読み手の感情移入をはねつける。ほんとうはいおりんは、堀江と大原真理がめでたく結ばれるまでの話を、このシリーズで書きたかったのではないか。それを思うと、今さらのように残念な気がする。いや、いおりんのことだから最後まで、ストイックな関係を保ったかもしれない……。考えれば考えるほど、もどかしくなる。

 いおりんは、本編の第八章まで著者校正を入れたところで、力尽きたという。いおりんにとっても読者にとっても、この遺作は文字どおり〈名残り火〉になった。

 わたしは半分まじめに、間に合わなかった分をいおりんに代わって、赤を入れようかと考えた。同じ作家として、満足のいくまで手入れができなかったのは、心残りだったに違いない、と察せられるからだ。しかしゲラを読んで、誤字脱字の訂正以外にわたしが手を入れる余地など、毛ほどもないことが分かった。

 たとえ一瞬にせよ、そのような不遜なことを考えた自分を、わたしは恥じる。

 とはいえ、そんなわたしをいおりんは苦笑しつつ、許してくれるものと信じている。

名残り火
藤原伊織・著

定価:本体667円+税 発売日:2010年06月10日

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