2013.01.10 書評

アダム・スミスと21世紀の「見えざる手」を探した

文: 浜 矩子 (エコノミスト)

『新・国富論 グローバル経済の教科書』 (浜 矩子 著)

 この新書の構想を練り始めたのは、2002年のころだ。2008年まで続き、「いざなぎ越え」景気と呼ばれた「景気拡大」が始まった年だ。

 この「景気拡大」は国民を幸せにしなかった。景気がよくなり、経済が成長しているのに、人々が不幸になっていった。こんなことは、かつては起こらなかった。経済が成長しているということは、日本企業の国際競争力が高まり、売り上げが伸びて利益が増えていくことを意味した。その中で、賃金が上がり、国民は豊かで幸せになっていき、国も潤う、それが基本的な「常識」だった。しかし、いつの間にか、その「常識」が通用しないグローバル経済に私たちは迷いこんでいた。

 企業の業績はいいのに、給料は上がらなかった。安い賃金の上に不安定な非正規雇用者の増加が社会問題となった。1億総中流だったはずが、格差社会化が進む。今から思えばグローバル経済の負の側面が一挙にあらわになっていった10年だった。

 こんなときこそ経済学の出番だ。なぜ「常識」が消え失せたのか。成長する経済が人々を不幸にしないようにするにはどうすればいいのか。その問いに答える新しい「国富論」。それが書かれる必要がある。その思いを深めつつ、今日に至った。

 企業の成長が国の繁栄をもたらし、国の繁栄が人を幸せにする。その「常識」が崩壊してしまったのは、なぜか。それはヒト、モノ、カネが国境を越えるようになったからだ。グローバル化が、国民国家を軸にした経済的均衡の構図を突き崩していく。当然ながら、国境を越えられない国家たちには、このような事態への対応能力がない。かくして、国民と国家との共栄関係が崩れつつある。

 企業は生き残るために安い賃金を求め、国境を越えて生産拠点を移す。そのため国内の雇用が失われる。また、企業はコストをできるだけ安く抑えるために賃金を上げず、非正規雇用者を増やす。こうして税収が減り、財政が悪化し、再分配機能が低下するためにますます弱者が切り捨てられる社会になっていく。

 このような問題に悩まされているのは、日本だけではない。今や先進諸国共通の悩みになっている。

 今や企業と国と人の関係はあっちを立てれば、こっちが立たず、こっちを立てれば、あっちが立たない、というものになってしまった。

 新しい共存共栄の道はないのか。

 1つの答えは、地球を1つの「国民国家」にしてしまうことだ。「地球国家」が成立すれば、グローバル企業の成長が地球の繁栄をもたらし、地球の繁栄が人を幸せにする、というかつての「常識」を復活させられる、という考え方だ。

 もう1つの答えは、鎖国だ。ヒト、モノ、カネが国境を越えて動き回ることが元凶なのだから、それを制限してしまえばいい、という発想だ。欧米では保護主義、愛国消費として唱えられている。

 どちらも一定の論理性はあるが、それによって出現する世界を想像すると空恐ろしくなる。スミスならどう考えるか?

 どちらでもない第3の道があるはずだ。その第3の道を探求するために、アダム・スミスの『国富論』の助けを借りよう。その思いが本書に結実した。

 スミスが『国富論』を書いた18世紀後半という時代には、産業革命が起き、世界が貿易のネットワークで結ばれた。いわば第2次グローバル化時代であった。ちなみに、第1次グローバル化の時代は大航海時代だ。スミス先生は、第2次グローバル化時代を考察対象とした。そして、そこに企業の成長が国の繁栄をもたらし、国の繁栄が人々の幸せをもたらす構図をみた。そこでかれは、「見えざる手」に全てを任せておけばよしと唱えた。政府の見える手は不要。彼はそう主張した。その主張は正しかった。

 ところが、第3次グローバル化時代の今、企業と国と人の幸福なトライアングルは空中分解している。この黄金の三角形は、もはや再生不可能なのか。それを再生するには、「見える手」の登場が必要なのか。それが、国家権力という名の見える手であってはいいはずはない。然らば、新たな「見えざる手」がどこかにあるのか。どこに活路を求めるのか。巨大な英知の巨大な成果である『国富論』を寄る辺としつつ、筆者は新たな時代の新国富論を探し求める旅に出た。その記録が本書だ。成果やいかに。是非とも、皆さんにご検証頂きたい。

新・国富論

浜 矩子・著

定価:840円(税込) 発売日:2012年12月17日

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