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甘美で贅沢な幸福の時間を与える小説、『往古来今』の正しい楽しみ方

甘美で贅沢な幸福の時間を与える小説、『往古来今』の正しい楽しみ方

文:金井 美恵子 (作家)

『往古来今』 (磯﨑憲一郎 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

「五十歳の誕生日の翌朝、日の出とともに覚め」て(しかし、なぜ、誕生日当日ではなく、翌朝なのか?)まるで二十歳の頃に感じたような解放感と身体的な充実感を感じる男(「アメリカ」)も、終末が近そうな暗然たる未来を待つ世界で「逞しく生き抜いていけるとはとうてい思えないと悲観された」小さな赤ん坊が「今ではもう五十歳だ」(「見張りの男」)と示された男も、同一人物のようでもあり、微妙に少しづつずれているのかもしれない。

 五つの短篇のうち最後の「恩寵」はやや異るとはいえ、四つの連作を通して、どうやら中心的な話者の役割りを荷うのがこの「五十歳」の男だとしても、だからと言って、私たちはこの「五十歳」の男の、小学生、高校生、二十歳の頃の断片しか知らないし、ごく最初の方のページに、「当時私はまだ二十歳になったばかりで、長く続いた恋愛に敗(やぶ)れ傷ついていたのだが」とあったのを読んだ時――この小説が雑誌に連載されていた時に読んだのであれば、その続きの「アメリカ」を読むまでに、三ヶ月の間があるが、単行本であれば、少し前に読んだということになる――これは何か、十九世紀、あるいは二十世紀のはじめの時代に書かれた、外国の小説からの引用のように感じたことが思い出される。感覚は、だが、そうした“感覚”について、『往古来今』の作者というか、精神的にホーソンの『ウェイクフィールド』の分身とも言える「脱走」の話者は、「果たしてそれは遠くと言えるのだろうか?」と問いかえす。「理解者と言えるのだろうか? 百年を隔てて私たちがカフカを理解するのだとして、ならばカフカ本人にとって私たちとは、いったい何者なのか?」

 放浪の画家や裸の大将として知られた山下清が登場する「脱走」は、山下清の描いた「絵」についての言及はなく、専ら若い放浪者がどのように嘘をついて食事にありつき、働き場所から逃亡するかが語られるのだが、私としては、「アメリカ」というタイトルの短篇が含まれているせいもあって、エルマンノ・オルミの『偽りの晩餐』(一九八七年)を思い出さずにはいられない。カフカの『アメリカ』の一挿話のような印象のこの映画で、カール・ロスマンのように家を追い出された少年は、ホテルのボーイにやとわれるのだが、不快な年寄りたちの“偽りの晩餐”が行われるホテルを、夜中に逃げ出す――塀によじのぼり、まず靴を塀越しに投げ落してから、そっと飛び降りて走り出す――のだったが、その少年が山下清に重なりつつ、当然、話者である観光旅館で働く孤独な脱走者の「翌朝日の出前、誰にも告げずこっそりと荷物を纏めて、私もこの町から脱走した。」という行動とも重なりあうことを誰もとめられないのが小説を読むということだ。

 ところで、山下清のミニアチュールのような正確な描写で成立している独特な絵の描き方は、その場での写生ではなく、放浪と脱走から戻ってから、正確な記憶によって描くのだそうだ。それは、“遅れ”をともなって描かれる。

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文春文庫
往古来今
磯﨑憲一郎

定価:660円(税込)発売日:2015年10月09日

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