金物問屋の金長(かねちょう)に嫁入りしたおこうは跡継ぎが産まれず、実家の水菓子問屋・丸清に戻った。しかし、一見優しく迎えてくれた兄夫婦、そして実の母の目的が、離縁のために返ってきた200両の持参金であることを悟り、おこうはかつて自分の乳母だった、おとわを訪ね、彼女が主人を務める川瀬石町の口入れ屋(人材斡旋業)の三春屋で働くことで、ひとりで生計をたてようとする――。
「『明治商売往来』という愛読している随筆集に川瀬石町が登場し、何度も読んでいるうちに、地図無しでもその界隈のビジュアルが立ち上がって、おこうをここに連れてきたくなりました。同時に口入れ屋を女性が経営するという難しさもリアリティーを持たせて表現したいと思って、1話目はおこうを主役にすえて彼女の境遇をしっかり書きました。ただ、当初の構想では三春屋を狂言回しの舞台にして、そこに集う人々を描く予定だったんです」
杉本さんの言葉通り、2話目の「夕すずめ」では奉公に出るもののいつも男性から言い寄られる器量良しの、お島、3話目の「去年今年(こぞことし)」ではある理由で息子と離ればなれにならざるを得なかった、おはまを中心に描かれ、おこうは脇役に退いている。
しかし、1年の間が空いて書かれた4話目「かりそめ」から筆致が一変する。再びおこうが主人公になり、近所の酒屋・亀屋の友二郎との関係が物語の大きな柱になっていくのだ。実はその間、杉本さんは病を得て医者から余命宣告を受けていた。
「それ以外にも色んな事件が重なり、小説の書き方を忘れてしまったような状態になりました。だけど、私にとって、生きることは書くこととほぼ同義。のたうちまわりながらも原稿用紙に向かいました。そうすると感情をあまり表に出さないはずのおこうが、心をむき出しにするシーンが出てきてしまったんです。今までだったら無理矢理軌道を修正しようとしていたかもしれませんが、その時は破綻してもいいから彼女の感情についていこうと思いました。私とおこうのストッパーが同時に外れた感覚ですね。私の抽斗になかったような書き方で2人の仲を書いています。もちろんすでに確立した自分のスタイルはこれからも大事にしていきたいのですが、執筆途中で訪れた予想もしなかった変化を、人為的に打ち消さなくてもいいんだと柔軟に受け入れられるようになったのは大きな出来事でした」
時代小説界随一の端正な文章と描写に、気持ちのよい荒々しさが加わったエポックメーキングな作品となった。
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『起き姫 口入れ屋のおんな』 (杉本章子 著) 文藝春秋
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