――新田次郎さんの未完の絶筆を息子である藤原さんが書き継ぐという、世界にも類を見ない親子合作の長編小説『孤愁 〈サウダーデ〉』がいよいよ刊行となりました。
「今年は父の生誕100周年で、ここ1年半ずっと、この作品の執筆に集中していました。年内に刊行することができ、ホッとしています」
――明治・大正期のポルトガル人外交官・モラエスの日本での日々を描いた本作は、毎日新聞での連載途中、新田さんの急逝によって未完のままでした。藤原さんは新田さんが亡くなられてすぐ、「自分が書き継ぐ」と決意したそうですね。
「父が亡くなった直後、私は無性に腹が立ちました。当時父と同居していた私は、父がこの作品に全身全霊を傾けていたことを肌で感じていましたから、志半ばで父の生命を奪った死という“暴力”に激しい怒りを感じたのです。父の死の翌日、新聞記者のインタビューを受けたときにも、敵討ち、仇討ちにも似た気持ちで『私がすぐに書き継ぎます』と話しました。
ところが新聞にこの発言が載った後、井上靖さんが『いくら息子さんでも作品を書き継ぐことは難しい。世界にも例を知らない』といったことを話されていて、私も父の葬儀から1週間、1カ月と経つ中で、拙速は避けるべきと考えを改めました。当時の私は一介の数学者に過ぎなかったし、新婚ホヤホヤの36歳。モラエスの心に去来するサウダーデ(孤愁)、郷愁、孤独といった心情も本当の意味では理解できていませんでした。そこで、父が残した9冊の取材ノートを手に、翌年夏のポルトガルを皮切りにマカオ、長崎、神戸、徳島とモラエスゆかりの地を何度となく訪れ、父の取材を追体験すると共に、30年間、資料を集め続けたんです。そしてようやく、父がこの作品を書き始めた年と同じ67歳で、物語の続きを書き始めることができました」
――なぜお父様はモラエスを書こう、と思ったのでしょうか。
「郷愁や孤愁は、山岳小説から歴史小説まで、父がこれまでに書いてきたあらゆる作品の背景に流れている感情です。父の代表作『武田信玄』の中で、武田の軍勢が関東に進出した時、関東平野の田畑に石ころがないと驚くシーンがありますが、これは評論家のよく言う『気象学者にして科学者でもあった新田次郎の観察眼の表れ』であると共に、兵たちが郷里である甲斐・信濃の石だらけの畑を、そしてその畑を守る故郷の親や子、家族を思い出して郷愁の思いにかられている描写なのです。父はモラエスが、親族の待つ祖国ポルトガルに戻ることも十分できたのに、結局戻ろうとしなかった、その複雑な心情に深く共感したのだと思います。早逝した妻・およねが眠る徳島の地で、墓守りをするように亡くなったモラエスの《サウダーデ》を書き切りたい……それが父の執筆の強い動機だったのではないでしょうか」
――普段の執筆と違った点はありましたか?
「大いにありましたね。たとえば本作の冒頭、モラエスが船で長崎に到着するシーンを読み返すたびに、父の文章の、グッ、グッ、という推進力や、自然描写の美しさを痛感します。山を愛し、自然への造詣が深く、俳諧にも親しんだ父に、この点ではどうにもかなわない。また、父は私が初めての本『若き数学者のアメリカ』を書いた時、「情念に流されるとダメだ」と文章指導をしてくれたことがありますが、今回も時折、モラエスと自分の心情が寄り添いすぎて、筆が滑ってしまうことがありました。そんなときは、父の叱る声が聞こえてくるような気がしましたね。でも、私は結局私でしかない。父に成り代わって書く、ということではなく、父の作品でもあり、私の作品でもあり、合作としてよい作品に仕上がれば、との思いで書き終えました」
――藤原さん御執筆の後半部には、今の日本人が忘れている日本の良さ、日本人の美徳に触れた箇所が随所に出てきます。
「モラエスは明治・大正期の日本の自然美や日本人の祖国愛を改めて発見し、衰退期にあったポルトガルの再興を視野に入れながら、多くの著書を通じて『祖国よ、日本を手本にしよう』と呼びかけました。それはそのまま、自信や誇りを失った現代日本人へのメッセージになっているように感じます。私が『日本人の誇り』などの著作でお伝えしてきた日本人の素晴らしさを、モラエスがすでに発見してくれていた。嬉しくも不思議な気持ちになりました。父の執筆部分と私の執筆部分、合わせて1400枚という大作になりましたが、父の小説を読んだ時の感動と、私の著作を読んだ時に感じられる自信と勇気、共に味わえる作品となったように思います」
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