懐かしさには幸福の匂いがする。母が戦時中に食べたカンパンの話、空襲警報が鳴っている中、花畑で髪飾りを作った話――戦中、戦後と生き抜いた人の話には悲しみが多い。悲しみが多いからこそ、ほんの少しの幸せを大事にしているように思う。高度成長期に生まれ育った我々には、個人の悲しみや苦労はあっても、世代を通して語れる哀愁が極端に少ない。戦中、戦後、大変な苦労をした人の話をどこか羨ましく思うあまり、勝手に自分の思い出のように脳にインプットしてしまうのだろうか。
『花まんま』は全編大阪の下町の話だ。しかも時代設定は高度成長真っ只中。私自身、生まれも育ちも大阪の下町であるため、なおさらこの本の世界に吸い込まれていったのかもしれない。そう思って、試しに東京の友人にこの本を勧めてみるといたく感動していたので、自信を持って二十代の本好きの後輩に勧めた。
ところが感想を求めたら、「話にドンデン返しがない」とか「ホラー的だ」など、あまり好評ではない。元来、小説は自分が読んで面白ければいいのであってその後輩にとやかく言うつもりはないが、彼の好きな作家を聞くとやはり流行りのミステリー作家だった。私自身二十代の頃にこの作品を読んだら、面白いとは思わなかったかもしれない。
ある程度の年齢になると、実際にはなかったこと、決して実現しないはずのことに懐かしさを感じることがある。
この本にはそれが詰まっている。
本来、懐かしさを感じる場面や感情はわかりやすいのが一番だ。しかし『花まんま』には泣けるセリフや泣ける状況は一切出てこない。そのかわり、読み終えた後、小説には出てこなかったはずのセリフや感情が心の中に湧きおこる。
具体的な思い出はアルバムを開けば出てくるが、体験していない思い出は誰かが教えてくれなければ得られない。もしそんな感情を味わってみたい方がいたら、『花まんま』をお勧めする。
後日、母が黒電話を捨てたと兄から聞いた。私は『花まんま』を本棚の一番奥に眠らせることにした。何かを忘れてしまった時、また、思い出させてもらえるように。
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『もう明日が待っている』鈴木おさむ・著
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