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東大生が体験した「8月15日」

東大生が体験した「8月15日」

文:立花 隆


ジャンル : #ノンフィクション

最前線に立った法学部

 法学部では、本土防衛の最前線に立った者もいた。小田滋(東北大学名誉教授・前国際司法裁判所裁判官/法学部政治学科/昭和22年卒)は学徒動員で海軍に入ると特攻要員に選ばれた。戦争末期、飛行機の操縦士が不足する中で、知的理解力の高い東大法学部の学生は、次々と俄か仕立ての特攻兵として速成教育されていった。小田もその1人だったというわけだが、その後予科のグライダー教官に選ばれて命長らえ、終戦を秋田の海軍基地で迎えた。

敵前上陸に命をかけて

 歌田勝弘(味の素特別顧問・元社長・富国生命社外取締役・元東日本旅客鉄道取締役/法学部政治学科/昭和22年卒)は、本土防衛のため最後の特攻訓練を行っていた。

「私は19年の10月入学、20年1月入隊、20年10月復学、22年9月30日卒業です。陸軍の特別甲種幹部候補生として香川県の豊浜の陸軍船舶幹部生隊に入隊しました。船舶は眼がよくないといけないんです。私は眼が悪かったのですが、徴兵検査のときに、『お願いします。甲種合格にしてください!』と叫んで、『よし、合格!』となりました。当時は熱心な軍国青年でしたね。

 船舶は、航空と並んで死亡率が高いんです。ですから、この二つだけが航空胸章、船舶胸章というものを胸につけることができるのです。親戚や友人から、『惜しい人物を』と言われました。その後言われたことはありませんから、死ぬと思っていたんでしょう。

 敵前上陸用舟艇で、浜辺に押し寄せて兵士を降ろしたら沖に退避するのですが、夜明けにしか出撃しないので『あかつき部隊』と言われていました。沖縄も占領されてどこに上陸するのかと思われるでしょうが、敵が本土上陸したあとに日本軍が再上陸して、挟み打ちにするという作戦でした。当時は高知に上陸するのではないかと言われていました。

 フィリピン沖海戦で一人乗りの魚雷艇が成功するのですが、当初は成果を挙げましたが、周りに網をはる対策をとられて、成果をあげることが出来なくなりました。私達の半年前の人たちは沖縄戦の船舶特攻に投入されています。

 8月15日は、ちょうど最後の訓練をおこなっているところでした。明け方に上陸演習を行った高松の砂浜で休んでいると、近所の人に天皇陛下の放送があると聞かされて近くの小学校へ行きました。声はよく聴こえなかったので、『もっと頑張ってやれ』ということかと思いました。そうしているうちに、本隊から帰還命令が来ました。帰還する途中、陸軍の飛行機がブンブンと自棄になって目茶苦茶に飛んでいました。

 敗戦を知ると、中隊長は『あくまで戦う』といい、仲間も血書を書いて『最後まで戦う』と忠君愛国に燃えていました。しかし私は、『こうなったら天皇陛下のご命令に従って、堪えがたきを堪え、敗戦後の日本を建て直すことに努力すべきだ』といって、皆を説得しました。東大生はわりとさめていたと思います」

「死ににいくのではない」

 歌田がそう思ったのは、出征前に聞いた田中耕太郎教授のひと言が胸に刻まれていたからかもしれない。

「出征前に小石川の植物園で法学部の壮行会が開かれて、田中耕太郎さんが『君たちは死ににいくのではない。武者修行に行くと思え』と挨拶をされたのです。とても印象的でした。神宮や本郷での壮行会とは別のものです。私は入隊後にその言葉を生徒日誌に書いたところ、おこられましてね。『汝は死の道を学びにきたにあらずや』と、教官から赤字を入れられました。

 終戦後は貨車に載せられて、9月の7日か8日に除隊しました。大学に戻っても先行きは不安でした。食うことに必死で、外食券を持って大学校内の食堂に並ぶことが最大の関心事でしたね。

 ゼミも何も、皆復員していっぱいです。年度もごっちゃでした。法学部の二十五番教室も満杯でした。総長が内田さんから南原さんに代わりましたが、南原さんは哲学的で、政治や世論から離れて、あるべき姿を語られました。

 一番印象深い先生は末弘厳太郎さんです。末弘語録といわれるほど名言を残す人で、『絶対にノートをとるな。頭に入れろ』と言われました。

 父親は官吏でしたが、戦後パージされました。私も官吏になろうと思っていたのですが、公務員も給料が安くなったり、昇給のために試験をするようになって、すっかりいやになりましてね。民間に就職しようと思ったら、三菱系の会社と、味の素があった。大蔵省に勤めている親戚に聞いたら、『安定を選ぶなら三菱、ひょっとしたら面白いのは味の素』と言われました。味の素は戦中は原料を止められて製造できなくなっていたのですが、釜の底に残っている味の素をアメリカに輸出したら、大変いい外貨の獲得手段になった。私が入社した年から製造を再開できたんです」

 秋田成就(法政大学名誉教授/法学部/昭和22年卒)は、南原繁の送別の辞を鮮明に覚えている。

「終戦時、私は海軍におりました。昭和18年10月、学徒の徴兵猶予が停止され、私たち文科系学生はほとんど徴兵され入隊しました。私の入営は昭和18年12月です。入営の前、法学部に緑会というものがあり小石川植物園で、緑会と法学部の先生がたとでお別れの会を開きました。その時、南原先生は、

『身体を大事にして、帰ってきてください』

 と、おっしゃった。その言葉に、大変、感銘を受けました。軍事色の強い時代にあって、そういうことの言える、勇気のある先生は少なかったですから。その一言だけは鮮明に覚えております」

入学通知者も除隊せず

 こうして大学から軍へ出征していく学生がいた一方で、なかには逆に、入学の通知を受け取りながら、上京しない者もいた。藤村正哉(三菱マテリアル相談役/法学部政治学科/昭和23年卒)は、六高2年生の昭和19年1月に久留米四十八聯隊に入隊し、歩兵砲中隊に配属になった。

「私は速射砲小隊でした。これは対戦車砲に開発されたものですが、米軍のM4戦車には歯が立たず、これを宮崎周辺に配備して敵の上陸用船艇を迎え撃つという訓練をしていました。速射砲を牽引するための馬を40頭から50頭飼っていましたが、その世話が大変でした。上官から、『お前たちは1銭5厘で集まるが、馬はそうはいかない。お前たちは馬以下だ』と言われ、馬にも馬鹿にされたことを覚えています。

 昭和20年3月に、東京帝国大学法学部合格の通知を軍隊で受け取りました。戦局悪化から入学試験を行わず、全国の高校の入学実績をもとに合格者が決定されていました。私は東大法学部に志望書を提出していたのです。上官の軍曹が我がことのように喜んでくれましたが、明日をも知れない身を思うとほろ苦い思いがしました。すでに戦局は悪化しており、4月の入学式のことなど全く思いもよらないことでした。8月11日に久留米が大空襲を受けると、対空射撃のため山中に陣地を構築しました。対戦車の速射砲を上方に向けてロッキードのP38を狙うのですが、敵機は悠々と上空を飛ぶばかりでした。そうこうしているうちに、終戦を迎えることになりました。初上京して東大に足を踏み入れたのは11月です。

 もぐり込んだ寮には江崎玲於奈(ノーベル物理賞学者・筑波大学学長/理学部物理学教室/昭和22年卒)や、神谷不二(東洋英和女学院大学教授・慶応大学名誉教授/法学部政治学科/昭和24年卒)などの学生がおり、文学部助手だった市古貞次さん(東京大学名誉教授・元国文学資料館館長)が背中に小さいお子さんをおぶって七輪をあおいでおられた。みな食糧に困っており、私が六高の寮長や軍隊時代の経験を生かして、皆から外食券を集めて食堂を運営し、大いに感謝されました」

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