まず恥じる。
自分で小説を書いていながら小説をあまり読まない。年間ベスト系のアンケートにも答えたためしがない。読破率が低く、欄を埋められないのである。
読破率の低さは極めて深刻で、文学史に残る名作すら挫折することおびただしい。にもかかわらず小説に手が伸びる。性懲りもなく手が伸びる。良い作品に出会う喜びは、それほどに捨てがたい。
短編集『獅子吼(ししく)』である。
小説をあまり読まない人間であっても時間を忘れる。時代も設定もテイストもスタイルも異なる六つの物語がまとめられていながら、なぜかケンカをしていない。良い本を読んだと素直に満足させてくれる。不思議というほかない。
聞くところによると短編小説集は長編小説ほどには歓迎されないのだとか。その理由のひとつは作品同士のケンカにあるのではなかろうかと愚考している。全体に統一感がなければ一冊の本を読んだ満足感に繋がりにくい。これを解消するには設定なり視点なりを統一するしかあるまい。
では『獅子吼』によって得られる満足感はどこに起因しているのだろうか。
おそらくは確かな文章である。
確かな文章は分類や主題の好悪を問わない。テイストやスタイルの違いを気にさせない。読み始めた人間を素早く引き込んで逃さない。頭より心で読ませる。作品世界を体感させる。
抜粋は畏れ多いが強行する。
――骨まで濡れる雨の中を歩いた。
収録作「うきよご」の書きだしである。光景と心理の体感が早くも始まる。読者は滑らかに物語へいざなわれる。
――「どうぞ」と背中で答えてから、沢村はあわてて立ち上がった。
同じく「流離人(さすりびと)」における一場面なのだが、こちらは動作が心理の体感をうながす好例である。まだ描写もされていない人物がすでに見える。
無から有を生み出す創作においてこれをこなすのは実のところ容易ではない。誤読を恐れるあまり文章が煩雑になり、もしくは箇条の羅列となり、いずれも体感どころではなくなるのである。情景描写とは読者に対する信頼の上に成り立つものと考えていいだろう。
人を知らねば小説は書けないという。
事実のほどはともかく、その意味するところはたぶんもう少し深い。すなわち読者を知らねば小説は書けないとの意味でもある。
読者を知らない小説書きは、やはり恥じるしかない。