レビュー

長い期間の中に置くことを許されるのにふさわしいものを本質的にもった作品

『月山・鳥海山〈新装版〉』(森敦 著)

文: 小島 信夫 (作家)

一 「月山」について (初出「季刊藝術」第二十七号)

『月山・鳥海山』(森敦 著)
 

 森さんとは断続的にとはいえ二十何年間のつきあいである。「月山」が昨年末執筆されることが決ったあとも、度々会っている。しかし森さんが、「月山」を書くということを私に語ったのも大分あとであるし、私が「月山」という作品をこの眼で見たのも、雑誌が出てからのことであった。そういう距離が徐々に二人の間の約束のようなぐあいになった。

 普通ならこういうことは記す必要はないことであるが、この場合はどうもそうはいかないようだ。くりかえすが、そして私事にわたるようだが、私は森さんに度々会って話をしあっていたし私の頭の中にも森さんの頭の中にあるはずの作品のことは、念頭を離れたことがないのに、その内容には立ち入ることが殆んどなかった。

 森さんと現実の月山のかかわりあいも、いくらかは私は知っている。しかし月山で紙の蚊帳をこさえて暮していたということとか、ある日雪の中を、私の友人が訪ねて行ったということや、雪の中で危うく死に損ったというようなことであって、それもこうして数行で書いてそれで終りといった程度のことである。勿論その友人の話はこの小説のようではない。山のことを書いた作品のいくつかは、前に読んだことがある。だがそのときも「月山」がこういうふうに森さんの中に住んでいたとは、正直いって想像できなかった。つまり私のいいたいことは、「月山」の世界は森さんの真言秘密の世界で、容易には語ることができるものではなかったということである。それはよほど心して語らないと人には通じない。ありふれたこととしてあるいは奇矯なこととしてそっぽをむくかもしれない。秘密好きというようなこととは違うのであろう。(こういうことは、私は「月山」を読んでほんとうに知るに至った)

 誰しも作者というものは、容易には語るに至らぬものを奥深く秘めているものである。そしていよいよ重い筆を執りあげてから作者もまたようやく自分の中の具体的な秘密の存在を知りはじめるものである。森さんの場合も、当初に計画されていたものと長さも違えば、ことによっては語り方もいくぶん違う結果になったようである。そういうことも、どの作者にも大体のところ、共通するものである。

 しかし私がいわんとすることは、そういうこととは、無関係とはいわないが、もう少し別のことである。少くとも「月山」においては、その世界は、吟遊詩人が音楽を奏でながら語りはじめるように、山伏が数珠をこすりながら、呪文や来歴を述べるように語られることではじめられねばならない性質の世界なのである。勿論美しい文章でなければならないが、そこには論理が語られていなければならない。もし美しいとすれば、根本には論理であることによって美しいのである。私たちの先人は、古今を問わず、その方法をとってきたらしい。たとえば「平家物語」の冒頭を考えてみると、そうなっている。作者の心構えであるだけではなくて、きく者の心構えであり、そこにきこえる音楽は、厳しいものを必ずしも厳しいと思わせまいとする、礼儀の役割を果している。「月山」つまり月の山が死の山であるということをいうとき、円かな山という心情とも共通するものなのである、と思う。

 せっぱつまると、意外に私たちは、色々なものをかなぐりすてて論理へ一直線に走る。何故人は死ぬのだ。それは……。何故、それは、してみると、……そういう態度や切なる要求が一つの山を月山と呼び死の山と呼ばせ、一つの山を鳥海山、日の山と呼ばせる。そして死の山から流れる水が庄内平野を潤す生をあたえる……。読者はそこで溢れるように沢山のことを一きょにあたえられる。

 そういうことを露払いのようにうたいあげて、「私」は夢の世界に入るかのように月山の中へバスに乗って行く。バスに? と人はいうかもしれない。違いますね、バスに乗って行くことこそが大切だ、と作者はいうだろう。俗世間の運び屋だからだ。

 生の根元でもあるから死はまた夢である。死んで生きているものは夢であるからである。ほんとうは、こういういい方をしてはいけない。人々は「死んで生きて」というようなふうには思いもしないし、生きもしない。「未だ生を知らず、焉ぞ死を知らん」という論語の教えのように考えたり生きたりするのに違いない。それだから、その通りに、「私」は夢にあこがれるが如くに月山にあこがれて、忽ち生の只中の山ふところに入りこむ。こういう「私」は、その山ふところの寺を出ようか出まいか、いくつかの迷い、たとえば、女と一夜のチギリを結ぶか結ぶまいかというようなこととか、果して自分はどのように思われているのか、というようなことには心を煩わすけれども、その他は専ら村人に向って問いかけ、うなずく。つまり、お話を承わるという有様である。その理由は「私」は客人であるからだ。恐らく、あのような儀式と共に入りこんだ「私」は、そもそも出しゃばることは許されないのではないか。客人は相手同様用心深くなければならないが、礼儀正しくある必要がある。礼儀は作戦でもあるのだから。竜宮城に案内された男は歓待をうけ、玉手箱を貰って帰る。玉手箱をあけなくとも、チギリを結んだものは、白髪になる運命にあったのであろう。女とチギリを結ばずとも、リップ・ヴァン・ウインクルは山の中で客として酒をのまされて眠っただけで、村へ戻ってきたとき、老人になっていた。月の山へ行って生きて帰らねばならない。黄泉の国から生き返った伊邪那岐命のように。

月山・鳥海山森 敦

定価:本体820円+税発売日:2017年07月06日