レビュー

「愛国」の衣をまとっていればワルでも「無罪」なのか?

『ナショナリズムの正体』(半藤一利・保阪正康 著)

文: 保阪 正康 (作家)
『ナショナリズムの正体』(半藤一利 保阪正康 著)

「愛国無罪」という語があるそうだ。「愛国」という旗を立てていたら、何をやっても許されるという考えだ。私が初めてこの語を聞いたのは一年ほど前のことだった。

 安保関連法案、森友学園、教育勅語問題と現政権の体質を問う問題点があからさまになってきた。しかしこの内閣のもとでは少々のハネあがり分子の存在は日常茶飯事なのかもしれない。それが法にふれても逮捕されないということなのだろうか。ある右翼団体の幹部といわれる人物が、「私たちは愛国無罪を認めない」と意気ごんでいるのを見て、これはどういうことか、私は恐る恐る尋ねてみた。

「愛国という動機を掲げれば、少々のワルをやっても許されると考える連中がいて困っているんです」

 というのだ。森友学園問題では、教育勅語などを持ちだして安倍ファンの一員になっていれば、いろいろ便宜を図ってもらえる、つまり「愛国」という衣をまとっていれば、少々のワルは問われない。それをこの語はあらわしている。えせナショナリスト、営業ナショナリスト、はては打算ナショナリストがこの語をもって社会を闊歩しているとの意味になるのであろう。

 安保関連法から憲法改正、そして共謀罪まで、安倍政権の政策はすさまじい勢いでこの社会の解体を目ざしている。いやこれは解体ではなく、日本社会がより安全で、より民主主義社会になるための道なんだというのが、安倍首相とその支持者たちの言い分である。であるならばなぜ国会でもっと丁寧な議論をしないのだろう。国民が疑問に思っている問題にフタをして平然としている、その無責任さで、この社会の解体を目ざされたら、この国の行く末はどうなるのか。

 まさか「愛国無罪」だからいいだろうというのではあるまい。

 昭和十年代の問題点はなにか。ナショナリズムがバランスを欠き、正常な判断感覚や価値基準がなくなってしまったことだ。それをもっとも端的にあらわすのが軍事独裁という語だった。昨今の情勢は、この軍事独裁とほとんど同じだと言っても、多くの人は「今の日本では軍事がそれほどの力を持っているわけではないから、日本はかつてのようなファシズムにならない」と考えている。そんなことを口にして安心している人たちもいる。

 なんとお粗末なんだろう。なんと本質を理解していないのだろう。昭和十年代の軍事独裁は実は行政独裁と同義語だということをあまりにも知らなさすぎるのだ。東條英機という軍人が政権の座に就き、行政の長という立場で立法・司法を仮借なく抑圧しつづけたのが軍事独裁の真の姿であった。大日本帝国といえども天皇主権のもとで三権(立法、行政、司法)はそれぞれ独立していた。つまり三権の姿は並列していたのである。それを東條軍事政権は、立法と司法を自らに隷属させていった。そのことによって政府はやりたい放題であった。

 安倍首相はかつて「私は立法府の長である」と言った。それは初歩的知識に欠けているとして揶揄(やゆ)されたのだが、しかし首相になる人物がそんな初歩的な間違いを犯すわけはないという目で見るなら、この首相は本音を隠さずに言ったことになる。立法府は行政府の言いなりになりなさいと宣言したというべきだ。この調子では、早晩、「私は司法の長である」と言いだすであろう。昭和十年代の軍事独裁、つまり行政独裁と同じ姿の方向へ進んでいることになる。

 安倍首相のナショナリズムは、行政独裁を目指すという形で目に見える形になっている。これをぼんやりと見逃していたとするなら、私たちは昭和という時代の教訓をまったく無視しているといわれても仕方あるまい。そういえば「愛国無罪」は戦前の軍人やそれに呼応する勢力が法廷闘争などでしばしば口にし、それを裁判長に認めさせている。そんな乱暴な時代があったのだ。

 時々刻々、これまでの戦後日本の価値体系が音を立てて崩れていくのを見るのは辛い。しかし今、現実から逃避することによって、私たちは何を得るだろうか。苦しくとも真正面から良質のナショナリズム、良質の保守という土台に立って、その復権を図らなければならない。私はその危機感からぜひこの文庫版を手にとっていただきたいと強く訴えたいのである。

 文庫化にあたって文藝春秋社の島津久典氏に感謝したい。ありがとうございました。

 平成二九年(二〇一七年)六月二九日

ナショナリズムの正体半藤一利 保阪正康

定価:本体690円+税発売日:2017年09月05日