2018.01.11 別冊文藝春秋

『跳ぶ男』青山文平――立ち読み

文: 青山 文平

電子版17号

「豊後国は交代寄合の立石領木下家を含めて八つの小さな藩が分立する国でございます。そのなかにあって岡藩は最大の七万石を拝知されており、柳之間詰めとしては大きな御国なのですが、留意すべきと申し上げたのは石高ゆえではございません」

 八右衛門に初めて目通りしたときも、剛は八右衛門の目の色を見なかった。“雑事のつもり”からすぐに“つもり”が取れて、“雑事”でしかなくなっていた。八右衛門もまた剛を藩主と見て対した。又四郎が居ても居なくてもだ。今日、又四郎は居る。居間の床を背にして座す剛を上の角にして、江戸留守居役の八右衛門と目付改め御側御用取次兼御小納戸頭取の又四郎が三角をつくっている。二人は齢が重なって見えるが、似てはいない。八右衛門は撫で肩で色が白く、剣よりも筆と短冊が似合いそうだ。

「実は、修理大夫殿は中川家の御血筋ではなく、他家より御養子として迎えられた御藩主なのでございます。その他家というのが、あの彦根井伊家でして、実の父君は彦根藩の御先代である観徳院様でございます。つまり、いま御公儀にあって大老を務められている井伊家の御当代様、左近衛権中将直亮様は修理大夫殿の兄君に当たられるということです」

 彦根井伊家が譜代筆頭で代々大老を送り出す家柄であることくらいは、すでに又四郎から導かれて識っている。その殿席は、公方様が日々を送られる中奥に最も近い黒書院と一体となった溜之間だ。しかも、親藩で御家門の会津松平家と、水戸家御連枝の高松松平家と共に、三家しかない定溜を分け合う。常に溜之間に在って、公方様の御求めに応じて政への御意見を述べられる。

 井伊家に限らず、すべての殿席の顔ぶれはほぼ頭に入っている。又四郎は剛の呑み込みの速さに驚いたようだが、野宮で、岩船保から借りた謡本や型付を速やかに覚えなければならなかったことを考えれば、どうということもない。当初、剛は能の曲を、岩船の庭先から保の稽古を覗いて、目で、耳で、覚えた。つまりは躰で覚えた。が、能は所作のみならず詞章の舞台でもあり、そして詞章は文字で綴られてから音になる。なんとしても文字でも曲の地肌に触りたくて、必死になって漢字を覚え、史書でも和歌集でもあるとされる、さらには武家の言葉遣いの習本でもあるとされる謡本を脳裏に刻み込んだ。野宮の役者になるということは、そういうことだった。

「すなわち、修理大夫殿は御城でいっとう下の柳之間に控えながら、いっとう上の溜之間とも、また御大老とも直につながっているということです。そのように、御家の実のところは縁戚姻戚まで見ないと捉えられません。これは、平戸藩の肥前守殿にしても同様でございます」

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別冊文藝春秋 電子版17号文藝春秋・編

発売日:2017年12月20日