1920年にスタートし、いまやお正月の風物詩となった「箱根駅伝」。初めてテレビ中継が放送されたのは1987年のことだった。“技術的に不可能”といわれた生中継はいかに実現されたのか?
ここでは初代プロデューサーを務めた坂田信久氏をはじめとするテレビマンたちの奮闘を描いた『箱根駅伝を伝える テレビ初の挑戦』(原島由美子 著、文春文庫)を一部抜粋して紹介する。
◆◆◆
日本テレビは53年8月に国内で最初に開局した民放テレビ局である。開局翌日に最初に放送したのが、後楽園球場で開催された巨人対阪神戦のナイター中継だった。以来、ボクシング、プロレス、ゴルフの試合を次々と中継。まだ一般家庭にテレビが普及する以前から街頭テレビなどを通じて、視聴者に「スポーツの日テレ」というイメージを植えつけるのに成功していた。
しかし、80年代に入ると状況は一変した。「オレたちひょうきん族」といったお笑い番組を中心にバラエティで成功したフジテレビや、「金曜日の妻たちへ」など大ヒットドラマを連発したTBSに視聴率争いで後塵を拝していた。
しかし、スポーツ番組制作部門は、相変わらず元気だった。読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)の1期生でもあった坂田は、プロデューサーという役職につくと、まずは愛するサッカーの大会中継を企画した。全国高校選手権大会やジャパンカップ(現・キリンカップ)、トヨタカップ(現・FIFAクラブワールドカップ)といった名だたる大型番組を企画・制作していったのだ。
坂田は、78年に広告代理店と日本陸上競技連盟より「国内初の女子マラソンを中継してくれないか」と打診されていた。しかし当時は女子のマラソン選手が少なかったことや、ロードレース中継の経験がなかったため、時期尚早であると断ってしまった。
ライバルの登場
79年の正月には、坂田を慌てさせる事態が起きた。東京12チャンネル(現・テレビ東京)が、民放としては初めて箱根駅伝を「中継」したのである。9区までは録画編集で、10区のゴール部分だけを生中継したものだったが、立派な出来だった。ラジオのみで箱根駅伝を放送しているNHKも、テレビ生中継に興味を示しているらしいとの情報も耳にした。
「僕は15年前から企画を温めていたのに。これは、うかうかしてられないぞ」
更に、ライバルであるテレビ朝日が「第1回東京国際女子マラソン」を中継。高視聴率を取り、負けん気の強い坂田を大いに刺激した。
「ロードレースの中継技術を、うちも身につけておかないとだめだ」
70年代初頭にはNHKによる「福岡国際マラソン」と「びわ湖毎日マラソン」の2つだけだったロードレースのテレビ中継だが、80年代に入ると、民間放送局の技術力の進歩と視聴率の良さから、その数は次々と増えていった。
79年、日本テレビは「北海タイムスマラソン」の放送権を獲得した。後に日本がボイコットすることになるモスクワオリンピックの代表選手が出場する予定だったからだ。
坂田は大会前に、NHKのスポーツ担当プロデューサー、杉山茂(すぎやましげる)へ電話をかけて、こうお願いした。
「ロードレース中継の技術を教えていただけませんか」
唐突な打診だったにもかかわらず、杉山は快諾してくれた。
ロードレース中継の難しさ
NHKと日本テレビは同じ業界の競合同士とはいえ、立場が違う。それに76年のモントリオールオリンピックからNHKと民放が手を組んで五輪の国内向け放送権を共同で獲得し、放送番組を共同制作する「ジャパン・コンソーシアム(JC)」(92年バルセロナオリンピックまでは「ジャパン・プール」)という仕組みが始まっていた。スポーツ中継でのぎすぎすした競争関係はなくなりつつあった、という時代背景も後押ししたのだろう。
まずは事前にどういうコースなのか、どんな建物がどこにあって電波送受信の障害になりそうか、事前に入念に調べ、頭に叩き込んでおくこと。そして往復で同じ道を折り返す場合、往路は右から左へ、復路は左から右へ流すために、どんな位置にカメラを置き、どういう視点から撮影するのがいいのか。
「サッカーや野球などボールゲームは画面にボールとボールにからむ選手が映っていれば100点だが、マラソンや駅伝などは長時間、長距離で全選手に、各ポイントにドラマがある」。例えば首位交代と、いわゆるブレーキや棄権などのアクシデントが同時多発的に起きた場合、優先順位はどうするか。
後方の注目選手にそうしたアクシデントがあった場合、中継車が急行するのか、公道に据えた固定カメラでカバーできるのか。目まぐるしく状況が変化していく中、その場その場で素早く、的確に判断し、指示を出さねばならない。
坂田と日テレの同期で中継技術の中心だった大西一孝(おおにしかずたか)テクニカル・ディレクターはともに、杉山からこうした陸上の長距離中継の概論などを学んだが、「飲み込みはさすがに早かった」。それからロードレースの中継現場を見学させてもらうなどして、初のロードレース中継へ向けての準備を着々と進めていった。
中継のパートナー選び
81年には第1回「東京国際マラソン」を中継するという成果を見せた坂田だったが、そこでプロデューサーを務めた坂田は、ある抜擢をした。まだ入社2年目だった社員を、移動中継2号車のディレクターに選んだのだ。
この青年こそが、のちに「箱根駅伝」の初中継で総合ディレクターを務め、類まれなる才能を見せた田中晃(たなかあきら)だ。
早稲田大学第一文学部(現・文学部)演劇科出身の田中は、「傷だらけの天使」「前略おふくろ様」といったドラマを作りたくて79年、日テレに入社。
田中の意に反して、配属先は運動部だった。運動部にとって田中は、9年ぶりの新入社員だった。上司は部の体育会系体質を懸念し、部員たちに、「『ああしちゃだめ、こうしちゃだめ』と細かく制限せず、しばらく温かく見守ろう」と言い含めていた。それに対し、「何様がやってくるんだ」という反発もあったという。
しかし、田中に仕事をさせてみると、ニュース原稿の書き方から映像編集の仕方まで、入社当時からセンスを感じさせた。確かにいいのが入ってきたぞ、と坂田は納得した。
坂田と田中の二人は、トヨタカップやプロ野球をはじめ、数多くのスポーツ中継で息のあったコンビを組むようになっていった。
本気で検討を始めたが…
ロードレース人気もようやく高まりつつあった83年。日テレは開局30周年記念番組となる企画を社内で募集、坂田が企画した「横浜国際女子駅伝」の中継が採用された。これは、世界で初となる「駅伝」国際大会だった。5年後は開局35周年となる。おそらく会社は、再び記念番組を募集するだろう。ならばそろそろ「箱根駅伝」に挑戦しようではないか。
坂田は本気で検討を始めたが、42.195キロのマラソンは中継できても、延べ200キロを超す距離と冬の箱根の山を克服することは、やはり技術的に不可能に思えた。
坂田は84年夏のロサンゼルスオリンピックに、日テレの取材チームの団長として参加した。中継技術を磨くため米国で1年間の研修をしていた大西も、それに加わった。
一方、田中は「ジャパン・プール」の一員として、オリンピックに参画していた。
仕事の合間に坂田は、同期で気安い仲だった大西に語りかけた。
「僕、箱根駅伝をやってみたいんだよねえ。すごい戦いなんだよ」
「えっ、箱根駅伝? 本当に? ……でも、面白そうだね」
このとき、優秀な技術者である大西が「箱根の中継は、技術的に無理だ」と頭から否定しないでいてくれたことを、坂田は胸に刻み込んだ。
「箱根のことは、思い出したくもありません」
プロ野球中継といった通常業務とは別に、坂田は箱根駅伝中継に向けて個人的に事前調査を開始していた。休日を使ってコースを歩いてみたり、箱根路を走った元選手や関係者を取材したり。日本陸上競技連盟の専務理事になっていた帖佐らの協力もあり、2年間で約100人もの人々から過去の駅伝の様子を聞き取っていった。
元選手の10人に9人は、思い出話をしているうちに、ふと目を赤くした。何十年も昔の話なのに、まるでつい最近のことのように話す人もいた。タスキをつなぎ切れなかった人に電話をしたところ、「箱根のことは、思い出したくもありません!」といきなり切られたこともあった。
「今まで中継してきた他のスポーツとはちょっと違うようだ。自分が思っていたよりも、何かずっと重みがあって、強烈なものを心に残す大会なのではないか」
1920年(大正9年)から始まり、太平洋戦争をはさんでもずっと存続してきた大会だ。84年の第60回大会までで、8000人近くもの選手が走っている。調べれば調べるほど、興味深い話、感動的な話など、様々なエピソードがこぼれ出てきた。
箱根駅伝は、ひとの人生に大きな影響を与えている。坂田は、その大きさに惹かれ、前へ前へと進んでいった。まるで奥深い箱根の山へ、いざなわれるように。
許可を得るまでの戦い
85年末、坂田は全国高校駅伝を取材した。優勝した兵庫県の報徳学園の全選手が、「次の目標は箱根です!」と宣言したのを聞き、「やはり、やるしかない」と決意を固めた。
箱根駅伝の中継を実現するには、克服すべき課題が多かった。テレビ番組を作るには「制作サイド」と「技術サイド」が協力し合わなくてはならない。いくら制作サイドが面白い企画を立てたとしても、技術的に不可能であれば、番組は作りえない。
大西が米国留学でいなかったため、坂田は制作技術局長に相談してみた。彼は箱根駅伝に興味を示してくれ、ベテランのテクニカル・ディレクターを紹介してくれたのだが、しばらくすると前言を撤回した。
「坂田くん、箱根はあまりにリスクが高い。やめようよ」
技術の責任者としては、当然そう言わざるをえない。今ほど機材が発達していない、アナログの時代だ。一人のカメラマンと1台のカメラがあれば可能な「録画中継」に比べ、「生中継」をするには比較できないくらい多くのスタッフとカメラが必要になる。
しかもあの曲がりくねった山道が続く箱根の山では、映像を送る「マイクロウェーブ(「電波」のこと。テレビ業界では『マイクロ』と略す)」をまともに飛ばせるはずもない。マイクロは直進するため、建物や木など、少しでも障害物があると通らなくなる。だからこそ、箱根のように険しい山が続く地域での生中継は非常に難しい。しかし、テレビで映像が途切れてしまうことは、絶対に許されないことだ。その責任を負うのは技術サイドになる。生中継ではありがちな放送事故でも、箱根に限っていえば、起こる可能性が30%はある。その箱根の山を、彼は不安に思ったのだ。
不可能への挑戦
可能性が一度消えたくらいでは、坂田はへこたれなかった。技術的な問題さえクリアになれば、企画を進められるはずだ。
帰国した盟友・大西とその部下の山中隆吉(やまなかりゅうきち)をつかまえると、それまでの経過を説明した上で、坂田は熱意を込めて訴えた。
「何とかして箱根駅伝をやりたいんだ」
すると大西はにやりと笑うと、あっさり言ってのけた。
「できないことは、ないよ」
そばで山中も、少年のようなわくわくした表情でうなずいた。
「不可能への挑戦って、面白そうじゃないですか」
中継技術を知り尽くした職人肌の大西と、大学ではボート部だったというガッツのある山中。この二人が賛成してくれるなら、なんとかなりそうだ。「マイクロ」というテレビマンのタスキをつなげるかもしれない。坂田は、希望の光が灯った気がした。
「技術としてできることとできないこと。それが何かを、はっきり示してくれないか」
それを一つ一つクリアしていけばいい。大西と山中は坂田の言葉に力強くうなずいた。
「やれるなら既にNHKが…」
まだ正式に企画は通っていなかったが、その実現に向けて坂田は精力的に動き出した。技術サイドでのパートナーは、大西しかいない。それでは制作サイドのパートナーは誰にしよう。
それまで坂田は、プロデューサーとして局のシフトで決められたディレクターと仕事をしていた。しかし、この実現不可能に思える大事業を実現するためには、求心力があり、制作能力に長(た)けた「ディレクター」というパートナーが必要だ。番組をトータルで管理していくプロデューサーに比べ、ディレクターに求められるのは、具体的に番組を作り上げる力だ。
坂田は、初めて上司に頼み、パートナーを指名した。田中晃だ。一回り以上も年下だが、坂田は彼の仕事ぶりに一目置いていた。
「晃は自分にないものをたくさん持っている。あいつとやったら、きっとうまくいく」
31歳にして総合ディレクターに指名された田中は、話を聞いて率直な感想を述べた。
「箱根の山は、生中継できますかねえ。やれるなら既にNHKがやっているはずです。でも、何らかの形で中継するのは面白いかもしれませんね」
箱根駅伝ならではの課題
箱根駅伝にはさらに大きな課題があった。刻々と変化する記録と、タスキを受け継いで次々に入れ替わっていく選手たち。そのタイムや順位を速やかに表示するにはどうしたらいいのか。
駅伝にはまた、「繰り上げスタート」という独特の制度もある。箱根駅伝でいえば、東京・箱根間の約100キロを選手たちが往復するわけだが、正月三が日という時期に、この駅伝のために長時間の交通規制をするわけにはいかない。そのため、往路・復路のすべての中継所で、先頭から20分遅れたチームは次の走者を出発させる。ただし、往路の鶴見・戸塚中継所については10分とする。復路スタートは、往路1位のゴールタイムから10分以上かかったチームは8時10分に同時スタートを行う。ただし、往路のタイムをそのまま積算する。
しかしそのために、そのチームの「見た目の順位」と記録上の「実際の順位」が食い違うといったことが起こる。そのようなややこしさを視聴者にどう理解してもらえばいいのか。
そういったシステム作りの研究を、坂田は社外ディレクターの平谷修三(ひらやしゅうぞう)に依頼した。坂田はそのきびきびとした実務能力を高く評価していた。
かくして、「チーム坂田」はいよいよ動き始めた。
-
『婚活マエストロ』宮島未奈・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/10/25~2024/11/01 賞品 『婚活マエストロ』宮島未奈・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。
提携メディア