物語について

サンフランシスコにある医院のオフィスで、老精神科医は、壁に掛けられた穏やかな海の絵を見ながら、光と情熱にあふれた彼らとの美しき日々を懐かしく思い出していた……。
結婚を直前に控え、太平洋戦争終結直後の沖縄へ軍医として派遣された若き医師エド・ウィルソン。幼いころから美術を愛し、自らも絵筆をとる心優しき男の赴任地での唯一の楽しみは、父にねだって送ってもらった真っ赤なポンティアックを操り、同僚の友人たちと荒廃の地をドライブすること。だが、ある日、エドは美術の桃源郷とでも言うべき、不思議な場所へと辿り着く。そこで出会ったのは、セザンヌや、ゴーギャンのごとき、誇り高い沖縄の若き画家たちであった。
「互いに、巡り合うとは夢にも思っていなかった」その出会いは、彼らの運命を大きく変えていく──。

ニシムイ美術村 摩文仁の丘 沖展 米軍文化部芸術課 琉球列島米国軍政府

1948年米軍文化部の廃止に伴い、新たな拠点を探していた画家たちが、儀保にあるニシムイ(北の森の意。首里城の北に当たる)に、「オキナワン・アート・ソサエティ」と称しアトリエ付住居を作って移り住んだのが始まり。

現沖縄戦跡国定公園として指定されている沖縄戦最大の激戦地。1945年6月23日に司令官・牛島中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより、日本軍による組織的抵抗が終了。沖縄県はこの6月23日を「慰霊の日」に制定。

沖縄タイムス社が主催する県内最大の総合美術展。例年3月中旬から下旬に掛けて浦添市民体育館などで開かれる。第一回は、1948年3月、当時まだ仮設だった沖縄タイムス社で開かれ、翌年は那覇高校で開催された。

1946年4月、米軍政府の文化保護政策の下、米国海軍により設立。ニシムイにいた画家たちの多くは、そこで美術技官として職務に就き、依頼に応じて風景画や肖像画を描いていたが、1948年、軍政府の南部移動に伴い廃止。

1945年3月、沖縄を占領したアメリカ軍により設立された。当初は海軍が軍政を担当、学者軍人によって博物館や文化部による芸術保護といった文化振興に尽力。1946年7月1日、陸軍に移管。1952年に米国民政府に改組。

私たちは、互いに、巡り合うとは夢にも思っていなかった

太陽の棘 原田マハ

定価:610円+税

判型:文庫判

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