書評

「さらり」の陰に潜む「ぐさり」

文: 芝山 幹郎 (評論家)

『映画の話が多くなって 本音を申せば9』 (小林信彦 著)

 小林信彦さんのエッセイ集『映画の話が多くなって』を繰っていると、イーストウッドやアレン、あるいはポランスキーといった人たちの仕事の流儀を連想してしまう。紙幅の関係で話を端折ってしまったが、いま述べたギアチェンジは、アレンやポランスキーも通過している。そしてここが重要なポイントなのだが、彼らは、安定したペースを獲得したあとも、「流す」という手抜きには与(くみ)しない。まあ、もともと激しい人たちなのだから、当然といえば当然だろう。加齢によって体力が落ち、とんがっていた部分がやや丸くなることはあっても、生来の鋭さや強さが矯(た)められることはない。

 小林さんの映画評にも、同じような事情がうかがわれる。ご承知のとおり、小林さんが一九七〇年代に書いていた映画評論は、衝撃的なほど鮮烈で、気概と戦闘心にあふれるものだった。といっても、イデオロギーがどうとか、ロジックがこうとかいった無粋な話ではない。

 当時二十代だった私の眼には、小林さんの姿が「単騎荒野を行くガンマン」のように映った。だってそうでしょう。こちらが、ゴダールだ、ヴィスコンティだ、ペキンパーだなどと野暮ったくのぼせ上がっていた時代に、小林さんは早くも、プレストン・スタージェスやエドワード・エヴァレット・ホートン、果てはノーマン・ウィズダムといった玄人の仕事に親しんでいたのだから。

 私が彼ら玄人の存在に注目したのは、八〇年代の後半になってからだった。アメリカやイギリスでビデオを買い漁っているうち、おや、こんなに凄い鉱脈が、と気づいたのだ。ただ、もしかするとこれも、昔読んだ小林さんの『われわれはなぜ映画館にいるのか』が無意識の底に刷り込まれていたためかもしれない。正直に告白すると、七〇年代中盤にあの本を初めて読んだとき、私はその価値を十分に理解していなかった。言及された異才や奇才の名前も、私の頭のなかを素通りしただけのような気がする。俺の眼は節穴だったのか、と私は自分に毒づいた。小林さんの言葉をしっかり受け止めていれば、もっと早くから彼らの仕事に眼を向けることもできたはずなのだ。もっとも、七〇年代の後半だと、ビデオソフトはあまり充実していなかったのだが。

 もしあなたが、小林信彦さんの映画評論やエッセイを読みはじめて日の浅い方だったら、私がいま申し上げたことを頭の片隅に留めておいていただきたい。

 なるほど、『映画の話が多くなって』はすらすらと読める本だ。八十歳を過ぎた小林さんが、ときには映画館で、ときにはDVDで見た映画を紹介し、その見どころにさらりと触れた本、という風に受け止める人がいても別段おかしくはない。

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映画の話が多くなって 本音を申せば9
小林信彦・著

定価:本体610円+税 発売日:2016年01月04日

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