キャプテンサンダーボルト

第5回
「ロシア人って、何のことだよ」

文: 阿部和重 / 伊坂幸太郎

『キャプテンサンダーボルト』 (阿部和重 伊坂幸太郎 著)

「さっきから何をわけのわからんことをほざいてるんだ。これは正真正銘の五色沼の水だ。テスターでチェックすれば、俺が嘘なんか言ってないとすぐにわかるだろ」

 ライダースジャケットの髭面男は相変わらず、苛立たしげにステンレスボトルを突き出して中身を調べろと訴えているが、相葉時之は動じない。そのペテン師にただ訝りの目を向けて、仲間たちが口々に追及するのを見守るばかりだ。

「おいおい今度は沼かよ」と呆れ声を出したのは、富樫だ。「南極沖の海洋深層水とやらはどこ行っちまったんだ? どんな水だか知らんがな、そいつがインチキな代物だってことはわかってんだこの野郎」

 富樫は一歩も引かず、白を切るのをやめさせようとしている。が、髭面のペテン師のほうも、くじける素振りなど見せずにおなじ主張をくりかえした。

「だからテスターでチェックしろと言ってる。簡単なことだ。なぜさっさとやらない? いったいどうなってるんだ? まさかこんなゴロツキどもを使いによこすとはな」深い溜め息をつくと、髭面男は何度も首を横に振りながら話の方向を変えた。「おまえたちが相手じゃ埒が明きそうにないな。ロシア人たちはどこにいる? 彼らと話をさせてくれ。成功報酬の手続きさえ済んだらここにもう用はない。この水を置いて出てゆくだけだ」

「ロシア人って、何のことだよ」相葉時之は思わず口を挟んだ。話をはぐらかすにしても、もう少しマシなことを言えよこのペテン師野郎が、と思う。

 ホテル十一階にある、五〇平米程度の広さのスイートタイプの部屋に今、相葉時之はいる。そのリビングスペースで、五人の仲間とともに髭面男を取り囲んでいるのだ。

 ペテン師にふさわしく、この男のしらばっくれ方には相当な迫真性がある。おまけにいつ袋叩きにされてもおかしくない孤立無援の状況下にもかかわらず、まったく怯む様子がない。つまりこいつは、こんな修羅場をたびたび潜り抜けてきているということだ。

 ひとり輪を離れ、黙ってなりゆきを静観している相葉時之はどうしたものかと思案していた。富樫が先走り、強引に詰め寄ってしまったが、直球で押しきるのみでは進展はなさそうだ。相葉時之は裏をかく方法を模索しつつ、試しにこんな方便を口にした。

「わかったわかった。そこまで言うならチェックしてやるから、それ渡せよ」

 やっとか、とうんざり顔の髭面男はステンレスボトルを放り投げようとしたが、手放す寸前で動作を中断した。途中でなにかに思い当たり、考え直したらしかった。

「いや駄目だ。先にロシア人を呼べ」

「ロシア人? そんな綽名(あだな)のやつは知らねえよ」相葉時之は探るようなまなざしを向ける。

「なるほど、おまえたちを雇ったのは、買い取り人のほうか。まあどっちにしろ、報酬を支払う保証がなければ水は渡せないな」髭面男はステンレスボトルをアタッシェケースのなかに戻したが、鞄の蓋を閉じようとした矢先にはっとなって身構えた。

 面と向かって髭面男をなじっていた富樫が、レスリングのテイクダウンさながらに、身を屈めて突っ込んでいったためだった。

 いきなり戦闘開始となり、誰もが呆然と立ち尽くしていたが、標的となった男自身は冷静に対処した。するりと一歩右によけて体を横に向けると、攻撃をかわされてつんのめりそうになっている富樫の腹部に鋭い爪先蹴りを入れたのだ。うめき声もあげられぬほど苦しげに、富樫は呆気なく、くずおれてしまった。

 富樫の秒殺返り討ちを目の当たりにし、案の定だと相葉時之は後ずさったが、仲間たちの反応は逆だった。福士をはじめ全員が激高し、躊躇なく男の制圧にかかった。

 相葉時之は即座に「みんな待て」と制止したが、その声は仲間に届かない。

 かなりの場数を踏んでいるらしい髭面男は、多勢に無勢など物ともせず、ほんの数分で五人ともかたづけてしまった。強烈なローキックを内股にお見舞いされるか、アタッシェケースで側頭部を殴られるかして、福士らは次々に蹲(うずくま)っていった。

 結果的に、このツワモノと一対一で対峙する羽目となった相葉時之は、これはまずいと焦りつつも、空笑いで弱気を隠した。まともに行って勝てる相手ではない。全速で頭を働かせて、彼は突破口を探った。髭面男のほうはといえば、準備運動にもならないという余裕の顔つきで相対している。

「ちょっと待て」髭面男が突然、指図して人差し指を口もとに当てたのはそのときだ。「おまえはそこでじっとしてろ」と言い、背後の壁に寄り添った。

「おい、何だよ」相葉時之が言うと、「しっ」と返してくる。髭面男は聞き耳を立てていた。隣室の話し声が漏れてきているのだろうか。

 相葉時之はつばを飲み込んだ。単なる緊張のためではなかった。時間が止まったみたいに突如しんとなり、力が抜けかけたが、彼は今また大きく目を見開いていた。打開の糸口を見出したからだ。

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キャプテンサンダーボルト
阿部和重 伊坂幸太郎・著

定価:本体1,800円+税 発売日:2014年11月28日

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