特集

温かな血の通う世界――宇江佐真理の足跡

文: 細谷 正充

『名もなき日々を 髪結い伊三次捕物余話』 (宇江佐真理 著)

 以後、旺盛な筆力で、次々と作品を発表した作者は、二〇〇〇年に『深川恋物語』で第二十一回吉川英治文学新人賞を、二〇〇一年に『余寒の雪』で第七回中山義秀文学賞を受賞する。また、何度も直木賞の候補になった。江戸の庶民の哀歓を描く短篇やシリーズ物を得意とする一方、『夕映え』のような幕末のダイナミズムを人々の人生を通じて活写することにも長けている。宇江佐版「百物語」ともいうべき『大江戸怪奇譚 ひとつ灯せ』や、他人の打ち明け話に耳を傾ける“聞き屋”の隠居老人を主人公にした『江戸夜咄草 聞き屋与平』など、作風は多彩だ。さらに、現代の平凡なサラリーマンが、天明の飢饉に喘ぐ寒村にタイム・スリップしてしまう『通りゃんせ』のような異色作にも、果敢に挑戦していた。それだけに、六十六歳での逝去は、あまりにも早すぎた。まだまだ作者の紡ぎ出す、芳醇な物語世界に遊びたかったと、悔しくてならないのである。

 さて、先にも触れたように、私は一度だけインタビューで作者と会ったことがある。二〇〇六年の三月か四月だったろうか。『三日月が円くなるまで 小十郎始末記』が刊行されるので、それについての話を聞いたのだ。実際にお会いした宇江佐さんは、ごく普通のオバチャンという感じで、なんでもザックバランに話してくれた。そのとき、どのような流れだったのか忘れたが、スポーツ選手の話になり、自分の息子のような気持で応援しているといい、さらに『三日月が円くなるまで 小十郎始末記』の主人公、仙石藩の青年藩士・刑部小十郎についても、子供のように思っていると語ってくれたのだ。鷹揚だが短気なところのある小十郎が、有名な相馬大作事件をモチーフにした騒動にかかわり、江戸でさまざまな体験をしながら成長していく。それを見守るような気持ちで書いていると話してくれたのである。

 そのとき、作者の主人公(及び主人公一家)へのスタンスを、卒然と悟った。家族なのだ。身内なのだ。自分の身内として、慈しむ気持ちをこめながら描いているのだ。ならば主人公を取り巻く面々は、親戚や近所の人であろう。近しい人々が物語を織り成しているからこそ、温かな血の通う世界になっているのである。そして私たちは読者という立場で、その世界の住人たちと、交わっていたのだ。本を読んでいる間は、登場人物の隣にいる気持ちになっていたのである。

 ああ、だからこそ作者の逝去が、たまらなく淋しい。ひとりの作家が亡くなったというより、素晴らしい世界に誘ってくれる、知り合いのオバチャンが亡くなったという感じなのだ。遠くで暮らしているので、なかなか会う機会はないが、作品を通じて優しく温かな肉声を聞くことができた。それが唐突に、終わりを告げられたのだ。今はただ、アルバムを開くように多くの本を開き、懐かしき思い出を追想するのみである。

名もなき日々を 髪結い伊三次捕物余話
宇江佐真理・著

定価:本体520円+税 発売日:2016年01月04日

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