2015.02.02 キャプテンサンダーボルト

第1回
ガイノイド脂肪に注目しろ!

文: 阿部和重 / 伊坂幸太郎

『キャプテンサンダーボルト』 (阿部和重 伊坂幸太郎 著)

序章

二〇一二年八月二七日

 ガイノイド脂肪に注目しろ!

 女の体が目に入ると、特に胸元が見えると、男の脳の扁桃体(へんとうたい)と視床下部では即座にその指令が出る。

 やだ隅田さん、わたしの胸見てたでしょ。桃沢瞳(ももさわひとみ)はワンピースの開いた胸元を手のひらで隠し、横にいる隅田周一に微笑みかけたが、笑顔の奥では男の脳の単純な働きについて考えていた。

 女の胸や尻、太腿を構成するガイノイド脂肪は女性特有のもので、男の脳の欲望中枢はそれが気になって仕方がない。ある性科学研究書に、そんな説が書かれている。

 カウンターの向こう側では、黒のベストを着た実直そうなバーテンダーがしきりにグラスを磨いていた。背後の棚には大きさや色の異なるボトルが並び、テーブルごとに置かれたシェードランプが発する赤色を跳ね返らせている。

 新宿駅からほど近くの、海外資本のホテルだ。来日アーティストがよく利用するらしい。一階のラウンジにあるそのバーは、混んではいないが、がらんとしているほどでもなく、カウンターに並ぶ桃沢瞳と隅田の会話も目立たない。

 後ろでは先ほどまで、高級そうなスーツを着た男二人が昨日のプロ野球の試合結果について語り合っていた。楽天ゴールデンイーグルスが最終回に、三塁への内野安打でサヨナラ勝ちしたことに、「捕らなければファウルだったのに」であるとか、「あんな勝利を呼び込むのが、マー君の力なのだ」であるとか、そういった話で盛り上がっていた。マー君こと田中将大は、楽天イーグルスの投手で、一方の男は、「これをきっかけにマー君、乗ってくるんじゃないのかな」と無責任な予言めいたことを口にした。

 野球には明るくない桃沢瞳も、その話題になると興味を惹かれ、ふたり組が出てゆくまでつい耳をそばだててしまった。東北地方について情報を集めていることもあり、仙台を本拠地とするプロ野球チームが身近に感じられていたからだった。

「そりゃ、君の胸、魅力的だから見ちゃうよ」隣の隅田が口元を緩める。五十過ぎの男にしてはカジュアルな服装で、皺の刻まれた顔とのギャップが、魅力的に見えなくもない。

 事前に調べた情報によれば、二十年前にコマーシャルの撮影現場で出会ったモデルと結婚し、息子が一人いるが、既婚者となって以降もあちらこちらで女を口説いている。特定の愛人はいないものの、旺盛な性欲の発散相手には苦労していないらしい。

 男性ホルモンは、戦闘状態に備えるために急上昇するものだから、隅田が五十を過ぎても精力的なのは、広告業界での競争に勝ち抜いてきた証とも言える。出世競争の中で男性ホルモンが増えるのも事実だ。

 桃沢瞳はそう認めながらも、好きにはなれない。

「でも、ほんと、わたしラッキーです。このバー、時間潰しでたまたま寄ったんですけど、まさか隅田さんに会えるなんて」

「私のことをよく知っていたね。広告の人間なんて裏方なんだけどな」言葉は控えめだが、隅田の顔には自信が溢れている。自分のいる裏方に、「表」と札(ふだ)を掲げるようなタイプだろう。

「さっき、あっちのバーテンダーさんが教えてくれたんです」と声を抑える。どうやって話しかけようかと、その手順に頭を悩ませていたところ、とはいえそれはいくつかあるやり方のどれを使うかの選択だったのだが、答えを決める前に、バーテンダーがひそひそと声をかけてきた。

「あちらにいる男性、実は広告業界では有名な」

 目ぼしい女がいれば、隅田に繋ぐ役をこなす契約でも交わしているのだろうか。そう疑いたくなるほど、バーテンダーは機械的に振る舞い、言い方もこなれていた。

 隅田の頭の中では今、さまざまなデータが処理されているはずだ。目の前にいる女がどの程度の知性を持っているのか、胸の実際の膨らみはどれほどなのか、自分に対してどういった感情を抱いているのか。何より、「今日、ベッドで一緒に寝られるかどうか」を探っている。

 そのことを、桃沢瞳は愚かだとは思わない。

 男の回路が、そうなっているだけなのだ。

【次ページ】

キャプテンサンダーボルト
阿部和重 伊坂幸太郎・著

定価:本体1,800円+税 発売日:2014年11月28日

詳しい内容はこちら  特設サイトはこちら