2010.09.20 書評

日本の頂点捕食者を考える

文: 高槻 成紀 (麻布大学教授)

『捕食者なき世界』 (ウィリアム・ソウルゼンバーグ 著/野中香方子 訳)

  本書は、生物多様性が頂点捕食者の存在によって守られてきたという仮説にいきつくまでの、科学者たちの研究の歩みを紹介している。本書にはさまざまな生態系において頂点捕食者消失がもたらした驚くべき事例が紹介されているが、読者の中には日本はどうなのか、という好奇心にかられた方も多いことだろう。

 私は保全生態学者として、主に、日本のシカの繁殖が日本の植生にどう影響していったか、ということを研究してきた。

 本書で紹介されているアメリカの例のように、日本でも、シカの被害は深刻である。私が仙台の近くにある金華山という島で研究を始めた一九七〇年代には、シカが植生に影響を及ぼしている状況を見ようと思えば特殊な場所に行かなければならなかった。しかし現在では、シカがいない県を探すほうがむずかしいという状況である。シカ問題は、初めは農林業被害が主であったが、やがてそのレベルを超え、自然植生への深刻な影響が懸念されるようになった。金華山などで起きていた植物群落の変化が各地で見られるようになり、森林の更新が心配されるようになってきたのだ。

 さらに、シカがいなかった場所にまでシカが進出しだした。たとえば多雪地として知られる尾瀬にシカが入って湿原をかき回したり、ミツガシワという植物の地下部を掘り起こして湿原の水流を変えたりするなど、予想もしないことが起きるようになった。栃木県ではニッコウキスゲ、シラネアオイなど山地性の植物がシカに食べられ、ついには南アルプスなど高山地帯にまでシカが「登り」、高山植物を食い荒らすまでになった。

 意外に思われるだろうが、シカ問題は東京にもある。東京西部の奥多摩町では、かつてシカは奥地に細々と生き延びていただけなのだが、過去十年あまりのあいだに徐々に増加し、植生にも影響をおよぼすようになった。人工林の多いこの山地は地形がきわめて急峻でもある。面積のわりに暗い針葉樹林にはシカの食物が少ないために、植物はほとんどなくなってしまい、大雨になれば土砂崩れが起きるようになった。場所によっては修復のために数億円をかけて大工事を行うという、予想だにしなかった事態をもたらしたのである。

 シカ以外の例も挙げよう。小笠原諸島には、かつて細々と人が暮らし、食用としてヤギを飼っていた島がいくつかある。 媒島(なこうどじま)はそのひとつだが、住民が後にヤギを残して離島し、残されたヤギが増え続けて植物を食べてしまったため、島が荒廃してしまった。それは想像を絶するもので、九七年に私が調査に訪れたときは、島の斜面には植物がまったくなく、赤土がむき出しになって、雨で深くえぐられた跡が残っていた。その赤土は島の低いところにたまるだけでなく、無惨にも海中にまで流れ込んで、湾全体が赤くなり、貝やウニや魚もいなくなっていた。

捕食者なき世界
ウィリアム・ソウルゼンバーグ・著 , 野中 香方子・訳

定価:1995円(税込) 発売日:2010年09月15日

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