書評

日本の頂点捕食者を考える

文: 高槻 成紀 (麻布大学教授)

『捕食者なき世界』 (ウィリアム・ソウルゼンバーグ 著/野中香方子 訳)

シカが森にもたらす変化

  シカの急増について、いくつかの説明が試みられているが、共通しているのは本書の仮説と同様、日本列島には頂点捕食者がいないという点である。大型肉食獣としては北海道にヒグマが、本州以南にツキノワグマがいるが、彼らがシカの頭数を抑制するという証拠はほとんどない。ヒグマがエゾシカを攻撃する例はあるようだが、今のところほとんど問題となるほどではないようだ。この点、日本で絶滅したオオカミは、ユーラシアでも北アメリカでもシカの捕食者として不動の位置にあり、高い知能と組織プレーによってシカの頭数を抑制してきた。

 ただ、日本の場合、シカの増加がこの二十年ほどで急激に起きている。オオカミが絶滅したのは一九〇五年とされる。オオカミがいなくなったせいでシカが増えたのであれば、約百年間増えなかったことをどう説明するのか。諸説あるが、明快な決定打はない。

 はっきりしているのは、「シカ問題」は農林業の盛んな地域から始まったこと、当初はまさに農林業の害獣として個体数抑制がはかられてきたのが、次第に自然植生へ影響を与えるようになり、今では高山植物にまで影響を及ぼすまでになったということである。農林業であれば柵を張るなどの方法も採れ、駆除によって効果もあがるが、自然植生への影響を排除するためにハンターの出動を期待することはできない。高山の国立公園はしばしば特別保護区であり、動植物の採集などは厳しく制限されているから、そこでハンターがシカを射殺するというのは常識的にいってもおかしなことであるし、継続的にできることでもない。

 シカが増加して植物群落が大きく変化し、そのことが植物を利用する小動物や物質の流れを変えている。そして、そうした微細な変化が全体として大きな変化につながってゆく。そういう意味で、私は、日本列島で増加し、分布を拡大させているシカの存在を、これまで以上に注意深くとらえるべきだと考えている。訓練をつんだ観察者の目には、最近の関東地方、中部地方のかなり広い範囲でシカの影響が出ていることがわかる。何気なくみれば「豊かな緑がある」としか見えないのだが、そこには、実は重大な変化がある。

  例えば、私たち日本人は、森にササが生えていることを当然だと思いがちだが、日本ほどの高緯度地帯で落葉樹林に常緑の植物が密生しているのは、世界的にみて例外的である。一般には落葉広葉樹林では、秋になるとほとんどの植物は枯れたり落葉したりするため、シカの食料事情は急激に悪くなる。しかし日本の林には常緑のササが豊富にあるので、シカは冬にはササを集中的に食べる。ササは丈夫な地下茎で土壌を安定させ、一年中葉を茂らせるので、草本類の生育を抑制するし、多くの哺乳類や鳥類の隠れ家となっている。今後、シカが爆発的に増え、ササを食い尽くすようなことになれば、日本の森林生態系は底知れぬ影響を受ける可能性がある。

捕食者なき世界
ウィリアム・ソウルゼンバーグ・著 , 野中 香方子・訳

定価:1995円(税込) 発売日:2010年09月15日

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