インタビューほか

向田和子インタビュー 向田邦子の言葉に支えられて

烏兎沼 佳代 (構成)

姉と妹の「没後三十年」

 

何も言わない人だからこそ

 この30年間、向田邦子関連のお仕事でたくさんの方々からお声をかけていただきました。「お引き受けする・お断りする」を決める基準は、姉の好き嫌いを考えた上で姉が喜ぶこと、それに母が喜ぶことをやること。私はそれだけを考えて、仕事を決めたい、と思いました。

 邦子から仕事についてあれこれ指示するメモ書きや手紙をもらったことは1度もありません。もしもメモ書きをもらったりなんかしたら、思いは薄れてしまったと思う。文字に書き残されているということに頼ってしまう。何も言わない人だからこそ、私はほんとに何か1つをもらったり、何気なく街を歩いたときに言う言葉をわりときちんと聞いていたと思います。本当に大切なことは、さりげない言葉で、ぽろり、ぽろりと言う人だと、子供のときから分かっていましたから。

 私から姉に手紙を書いたこともありません。書いても、「読みたくない」と言って、ひっちゃぶる人だと思います。

 父は反対に筆まめな人でした。筆まめな人というのは何かそれに頼って、あんまりインパクトがなくて何も残っていない、ということもあります。実際、取材などで「字のない葉書」に出てくる、私がマルやバツを書いて返信した葉書と、「父の詫び状」に出てくる朱筆で傍線のついた詫び状は残ってないか、と何度も聞かれましたが、1枚も残っておりませんしね。

 書いて伝えることより察することが優先だったはずが、唯一「書いてある」と姉が私に言ったものがあります。それが遺言状でした。

「もしものことがあるから、遺言状は書きました。テレビの上に置いてあります」と。

 でも、実際に事故死した直後には、遺言状のことはまったく思い出しませんでした。遺言状は、ちゃんと姉が言い残した位置に置いてありましたけど、気づいたのは迪子(次姉)でした。

 姉の訃報が届いた直後から、私は文字ではなくて、姉が何を言いたかったか、というメッセージを探していたと思います。姉が死んだ直後のことは話したくありませんが、1つだけ言えることがあるとすれば、「命を大切にしなさい」という姉の遺志を強く感じたこと。家族、猫たち、残された命をどうやって守っていくか。生きているために、食べる、寝る。それだけに集中することで、私は精一杯でした。食べることがあんなに苦しかったことはありません。

 3カ月ほどすぎてから、今度は、姉の仕事をどうするかという現実問題をつきつけられてきました。

 各方面の方々に半年間待ってもらい、半年後から一斉に邦子の仕事をスタートすることになりました。私が窓口をする、と公に決まったときから、私は、「向田邦子という人は、どういう仕事をすることを考えていたか?」という地点に立って、「向田邦子だったら、どういうことを考えて仕事を進めていったか」、「イエス、ノーをはっきりしなきゃいけない」と考えながら、邦子の没後の仕事をするスタートラインに立ちました。

 大変ありがたいことに私は姉の生前に3年間、「ままや」で姉の後ろ姿を見たような気がしますし、仕事関係の人たちも何となく見ていました。それで誰にも相談せずにイエス・ノーを決めてきました。

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