インタビューほか

向田和子インタビュー 向田邦子の言葉に支えられて

烏兎沼 佳代 (構成)

姉と妹の「没後三十年」

 

向田邦子と東日本大震災

 今年は、30年の年月を感じる不思議なご縁がたくさんありました。

 NHKでは松下奈緒さんの主演で『胡桃(くるみ)の部屋』をドラマ化してくださいました。『寺内貫太郎一家』を子どもの時に観ていてくれた爆笑問題の太田光さんが全集の月報に書いてくださった原稿が『向田邦子の陽射し』という1冊の本になりました。朝日新聞をはじめ多くの紙誌でも邦子は取り上げられて、作家の角田光代さん、有川浩さん、歌手の桑田佳祐さんまでが向田邦子のファンだと言ってくださって、驚いています。桑田さんはなんでも太田さんに全集を送ってもらったのが読みはじめたきっかけだったとか。文庫の新装版で、『ダイヤル110番』のプロデューサーだった北川信さんと、この何年か向田作品を舞台にしてくださっている中島淳彦さんに解説をいただけたのも嬉しいことでした。

 私の「和樂」の連載もきれいなムックにしていただけましたし、『向田邦子テレビドラマ全仕事』の改訂版も発売されました。この何年かで発見されたシナリオと資料があって、向田邦子の全作品数が66作品から74作品に増えました。時代の流れにのって、シナリオ集の電子書籍も順調に巻を重ねています。『寺内貫太郎一家』の脚本がパソコンや携帯で丸ごと読めるなんて、邦子が知ったらなんて言うかしら。

 そして、今年は私にとって、没後30年を迎えたこと以上に、3月11日におこった東日本の震災が向田邦子を深く考えるきっかけになりました。

 泥だらけになったアルバムを綺麗に洗って生き残った家族のもとに返す……そんなテレビニュースを見るたびに、邦子を思い出したのです。

 邦子が全てを失いかけたとき、それは乳がんの発病でしたが、自分の原点はなんだろうと考えて支えになったのも家族の記憶でした。余命いくばくかと宣告される恐怖と戦いながら、エッセイを書き始めたにちがいありません。

鹿児島県の平之町での家族写真。邦子さんは右端

 向田一家勢揃いの写真は、鹿児島で撮った1枚だけです。邦子は記憶が大変いいですから、まず、その写真を思い出したかもしれません。でもそれよりも、邦子は心のアルバムを開いたと思うのです。そうすることで実際の写真よりも色鮮やかな記憶がよみがえった。心のアルバムに浮かび上がったものが、『父の詫び状』の中の薩摩揚げであったり、鹿児島の子供のときの思い出であったり、空襲のことであったり。それから、「ああ、和子が疎開に行ったとき、お父さんが宛名を書いた葉書をたくさん持たせたなあ」、などと思い出していって、随筆を書かせていただけた。「父の詫び状」自体が仙台時代の思い出を書いたエッセイですから、ひときわそう思いました。

 ガンと死が向田邦子の人生を変えた。もしかしたら、それは幸せだったのかも知れません。病名がわかったのはちょうど『寺内貫太郎一家』を書き終える頃です。この病気で作風が変わりました。

 病気が幸運だとは言えないけれど、運も不運も裏返し。うちの姉が言う「縄みたいなもの」です。

 作家にとっての死も、そうだと言えないでしょうか。

「直木賞をもらったから、命が終わるのが早まった」という言い方も耳にしましたけど、私はそうは思いませんでした。直木賞をもらったことと、それから旅に出て命を絶たれたことは別の運命だ、と私は感じているのです。

 直木賞は、向田邦子というあまり賞をもらったことのない人間、そして、本当はとても褒められることが大好きなのにあんまり褒められることもなく生きて来た人間を、50歳になって、ぱーっと輝かせた。その後の人生がどうなろうと、一瞬最高に輝けたことは、妹であることぬきに客観的に考えて、「向田邦子」の人生にとってとてもよかった、と私は30年たった今もそう思ってます。

 もしも何年か後に、私が天国へ行って邦子に会ったら、姉は何て言うでしょう。 「和子ったら、ずいぶん待たせるねえ」とでも言うんじゃないかしら。「よくやったね」なんて褒めてはくれませんよ、絶対にね。


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