
- 2023.10.30
- ちょい読み
大好きだった妻と離婚した僕の新居は“Z世代”の学生が集うシェアハウスだった――麻布競馬場「令和元年の人生ゲーム」
麻布競馬場
麻布競馬場「令和元年の人生ゲーム」第三話
出典 : #WEB別冊文藝春秋
ジャンル :
#小説
,#エンタメ・ミステリ
第三話
2022年4月。社会人7年目を迎えた僕は、池尻大橋の大学生向け大型シェアハウス「クロスポイント」にチューターとして入居した。この「クロスポ」は、このあたりの沿線の不動産開発も手掛ける僕の勤務先の鉄道会社が未利用地を活用した「なんかクリエーティブでイノベーティブな事業」ということで、僕の所属する新規事業開発室がハーヴァード大のような全寮制大学の学生寮を参考にしながら立ち上げたものだ。
旧大山街道沿いに新築された地上5階建ての集合住宅には、ベッドと小さなデスクしか置けない10平米ほどの独房のような部屋が30ほどぎっちり詰め込まれていたが、その代わり各所に様々な共用設備が贅沢すぎるほどに用意されていた。1階にはセンスのいいヴィンテージ家具が置かれた広々としたラウンジが、2階には栄養バランスに気を遣った食事を毎日提供してくれる清潔な食堂があり、見晴らしのいい屋上には一面に人工芝が敷かれている。
「クロスポイントという名前には、普段の生活では出会うことのない人たちと出会うことのできる、交差点のような場所になってほしいとの願いが込められているそうです。このシェアハウスでみなさんが学び合い、刺激し合い、新しいカルチャーやビジネスを続々と生み出してくれることを期待しています」
1階のラウンジで開かれた入居式で、ここの運営会社に勤めているという理由で、6人いる社会人チューターのリーダー(チューターとは学生の指導係のことだ)を任されることになった僕は、ガッチガチの緊張をどうにか隠しながら、若き入居者たちを激励した。このシェアハウスの記念すべき第1期生の学生入居者は、東大や早慶、最低でもMARCHといった名門大学に通い、エントリーシートや面接での審査を経て厳選された30名だ。ハイネケンの瓶やウーロン茶のグラスを片手にズラリと並んだ彼らは、自分たちが選ばれてここにいるという高揚感を嚙み締め、ふつふつと湧き上がる自己肯定感に、恥じらうことなく浸っているようだった。
「高校時代には環境問題にまつわる国際会議に日本代表として出席」
「マイナースポーツであるバウンドテニス普及のため、全国各地でワークショップを」
「大学院で大好きなイカの研究をしていて、イカガールとしてテレビ出演も」
彼らの口からはバラエティに富んだ輝かしい自己紹介が次々と飛び出し、僕はクラクラしながら「慶應SFCを出て、新卒で何となく入社した会社の新規事業開発室で、なんかクリエーティブでイノベーティブな仕事をしています」という退屈な経歴をどうやってデコレーションすればよいものか、冷や汗をかきながら必死で考えていた。
*
その日から始まったクロスポでの暮らしは、大変に意識の高いものだった。大学生も社会人チューターも一緒になって、ラウンジでテレビのニュース番組を見ながら激動する国際情勢について意見を交換したり、あるいはシーシャを持ち込んで屋上でBBQパーティを開催したりした。集まるたびに誰かが「せっかく優秀なメンバーが集まってるんだから、何か面白いことができたらいいよね」と声をあげ、皆が「分かる」「分かる」「分かる」と続くのだった。
「どうして、サラリーマンなんかになったんですか?」
入居して二週間ほどが経ったある日、朝7時前から起き出して誰もいないラウンジで「ビジネスに効く」という宣伝文句の帯がついた小難しい人文書を読んでいた僕に、慶應法学部1年生の脇谷くんが質問を投げつけてきた。僕は本からしばし目を離し、彼の意図を先回りして予想したうえで「やりたいことも、得意なことも見つけられなかったからだよ。脇谷くんはこうならないようにね」と笑顔で回答してやった。
「いえ、別にサラリーマンを下に見てるとか、攻撃してやろうとかってつもりじゃないんです。僕たちZ世代は、下積みと称してやりたくもない仕事を何年も何年もやらされたり、会社の都合でライフプランを無視した激務や転勤を強要されたりすることを避ける傾向にあるから、なんでサラリーマンやってるのか、純粋に気になっちゃっただけで……ほら、最近はフリーランスで働きつつ、ギルド的な感じで会社にも一応所属する、みたいなのが流行ってるじゃないですか」
脇谷くんには少しも悪びれる様子がなく、むしろ得意げですらあった。Z世代、という言葉はてっきり若者をダシにしてお金を稼ごうとするおじさんたちが作り出した架空の概念かと思っていたが、むしろクロスポの大学生たちはZ世代を進んで自称していた。そして彼らが「Z世代」を規定するたびに、その会員制クラブに入れてもらえなかった社会人チューターたちは、いわば古くて間違った人たちとして永遠に解消不可能な十字架を背負わされた。そう、クロスポは世代を超えた交流の場であると同時に、この手の世代分断の場でもあったのだ。今日は僕がフリーランスではなくサラリーマンなんかをやっていることを糾弾される風向きのようで、僕は内心ややうんざりしていた。確かに僕は、慶應SFCという意識の高さの殿堂みたいな大学に進学して、国際交流系の学生団体に入ったり、「通過すれば就活無双間違いない」と言われていた広告代理店やら損保やらの名門インターンに参加したりと、それなりに意識の高い学生生活を送っていた。しかし、今やしがないサラリーマンだ。900万円程度の年収は世間的に見れば決して悪いものではないが、この東京では慎ましく暮らすしかない。これ以上、過去の僕の意思決定を深く追及されたらどうしようかと思っていたら、次の生贄がニヤニヤ顔でエレベーターから出てきた。
「あ、沼田さん! 沼田さんはどうしてパーソンズに入ったんですか? あそこで新人賞獲れるくらいだったら、最初からフリーランスでやっていけばよかったのに」
ラウンジの隅で無料提供されているコーヒー目当てなのか、社会人チューターの沼田くんがパジャマみたいな部屋着のままやってきた。他のチューターがコーチングの認定プロフェッショナルやらコミュニティデザイナーやら、実際のところ何を仕事にしているのか分からない肩書きのフリーランスばかりの中、彼は僕と同じくサラリーマンだった。そんなわけで、僕は社会人4年目の彼に対して勝手に親近感を持っていた。
「ええっ、なんでって言われても……働かずにお金を貰うには、サラリーマンしか道がなかったからですよぉ。それに、こうやって立地のいい新築シェアハウスに無料で住めるのだって、サラリーマンをやっているからなんですよ。僕はサラリーマンという身分に感謝しています」
とんでもない回答を返しながら、無料コーヒーをポットから紙コップにジョボジョボと注ぐ沼田くんに、脇谷くんは怒りを通り越して呆れたような表情を浮かべた。脇谷くんにとってはとんでもない主張だろうが、しかし沼田くんの発言はどうも事実らしい。高校生や大学生の起業支援を積極的に行っているパーソンズエージェントに、仕事で関わりのあるうちの会社の役員が「誰かチューターを出してくれないか」とお願いしたところ、宇治田社長が「面白いやつがいますよ、若者たちにとっていい刺激になると思います」と送り込んできたのが、この沼田くんだったのだ。
「チューターとして提供したいバリューですかぁ? うーん、特にないです。宇治田さんがどういうつもりで『いい刺激になる』と言ったのかは分かりませんが、僕から若者たちに何か伝えられることがあるとすれば、こんな怠惰な人間でもサラリーマンになれば社会でのうのうと生きられるよ、ってことくらいですかね」
入居に先立って3月に行われたチューター顔合わせの会で、沼田くんはひとかけらの罪悪感も感じている様子はなく、そう見事に言い切ってみせた。他のチューターたちは絶句していたが、沼田くんは仮にもあのパーソンズで新人賞を獲るほどの人間なのだから、きっと宇治田さんによるこの起用には何か意図があるに違いないと僕は睨んでいた。
*
「へぇ、シェアハウス暮らしか。てっきり塞いでんじゃないかと思ったけど、久しぶりの独身生活を満喫してるようで安心したよ。しかしここも随分久しぶりだな」
神泉のはずれにある落ち着いた雰囲気のフレンチレストランのムーディーなカウンター席に隣り合わせに座る長谷川がやや煽るようにこちらをのぞき込んできたので、「いいだろう、結婚生活は懲役生活だよ。お前もすぐ戻りたくなるさ」と僕も遠慮なく煽り返してやった。
中高一貫の男子校から大学の学部まで、それもゼミまで一緒だったという腐れ縁の長谷川が、合コンで知り合ってもう3年ほど付き合っている年下の彼女の真綾ちゃんと結婚することになりそうだという話は前々から聞いていたが、遂に先月Ⅹデーが来たらしい。
「敏腕営業マン顔負けのすごいクロージングだった。綿密な逆算スケジュールを引いてたんだろうな、見事な段取りで外堀を埋められていったよ」
去年のちょうど今頃、真綾ちゃんは「30歳までには出産したい。妊活期間も必要だろうし、気ままな二人だけの時間も十分に欲しいから25歳の誕生日までにプロポーズしてくれなかったら別れる」という条件を長谷川に提示してみせた。その後彼女は自分の親友たちと長谷川を引き合わせる会を計4回、次に自分の母親と長谷川を引き合わせるカジュアルな食事会を計2回、その隙間に長谷川の親友たちとの会を計3回、それから……と、慶應卒で国内最大手の飲料メーカーに勤める優良物件・長谷川は優秀な牧羊犬に追い立てられる無抵抗な羊のごとく、定められたゴールへと徐々に追い詰められていったようだった。
真綾ちゃんとは、僕も一度会ったことがある。「長谷川の親友たち」との会の3回のうち1回は、長谷川と真綾ちゃん、それから僕と元妻の冴子によるささやかなホームパーティだった。僕たち夫婦が当時住んでいた学芸大学の2LDKに二人を招待して開催したその会の写真は、スマホを遡れば出てくるだろう。去年の6月の、梅雨入り前のやや肌寒い曇りの日のことだった。
「私、結婚したらお二人みたいな夫婦になりたいです! 冴子さんの、バリキャリで自分をしっかり持ってる感じ、すごく今っぽくて素敵」
上機嫌な冴子が小さなセラーから次々と出してくるワインで気持ちよく酔ったのだろうか。女子大を出て、都内の実家に住みながらお父さんがやっている中小企業で経理事務の仕事をしているという彼女が、冴子に憧れる理由はよく分からなかったけど。
「え~、そんなことないよ! バリキャリって言っても普通の通信会社で営業やってるサラリーマンだし」
冴子が「自分をしっかり持ってる」のほうについては触れることなく僕と長谷川の方をチラリと見てくるのだから、僕たちは黙って微笑むことしかできなかった。冴子は僕と長谷川のゼミのひとつ後輩だ。彼女は一浪だから、年齢は僕らと同い年。
長谷川は、冴子がうちのゼミに入ってきたときから僕が何かと理由を付けて飲み会で彼女の隣の席に座ろうとしていたこととか、夏の九十九里でのゼミ合宿で企画班に裏工作をして彼女と同じグループにしてもらおうとしたこととか、彼女が社会人3年目の冬になって彼氏と別れたと聞いたその日のうちにLINEでデートのお誘いをしたこととか、そういった僕たち夫婦の力関係みたいなものをよく知っている。そしてまた、彼女がゼミ在籍中からやや変わった人生観を公言していたことも、長谷川はきっと記憶しているだろう。
「法律婚だろうが事実婚だろうが、ある時点での自分の判断で未来永劫、自分を縛り続けるとか絶っっ対に無理」
ゼミの飲み会なんかで結婚の話になるたび、冴子はいつだってそんなことを言っていた。彼女はずっと結婚というものを毛嫌いしていたし、僕と付き合う前の彼氏ともそれが原因で別れたと言っていた。彼女は十分に自立していて、仕事も充実して様々なコミュニティに友達がたくさんいて、いつでも貸し切りグルメ会からボルダリングまで予定がぎゅうぎゅうに詰まっていた。彼女にはきっと、結婚や育児なんかがなくとも人生でやることがたくさんあったろうし、「慶應卒共働きパワーカップル♪」みたいな借り物の肩書きがなくとも、自分の力だけで自分という人間を表現することができた。だから2020年の夏、僕が付き合ってまだ1年も経っていない冴子と結婚すると聞いた長谷川は「いったい何時間土下座したらそんなことが通るんだ?」と驚いていた。土下座自体は2分ほどで済んだのだが、僕はそれよりも効果的な契約を彼女と結んだのだった。
① 冴子が離婚したいと言ったら無条件で受け入れること
② ①の約束はお互いの両親には言わないこと
③ ①②のせいで揉め事が起きたとしても冴子は何も責任を負わず、すべて僕が責任をもって解決にあたること
「おいおい、何だよそれ。お前ら仮面夫婦でもやるつもりか?」と長谷川はすっかり呆れていたが、僕は仮面夫婦でも何でもよかった。とにかく冴子との関係を、何かの手段で永遠にほどけないくらいにがんじがらめにしてしまって、彼女が僕の許から離れようと決める日が来ることを少しでも妨害できればよかった。それほどみっともなく僕は冴子のことが好きだったのだ。彼女の猫のように吊り上がった涼し気な目や細くしっかりと通った鼻梁とか、豪傑みたいに見られがちだが私生活では意外と繊細で気の回る性格とか、そんな細かな理由は無数に挙げることができるが、僕は理屈を超えてとにかく彼女を好きになり、この一方的な好意が結実することを求めた。
冴子の社交がコロナ禍のせいでまったく途絶してしまったために彼女を襲った退屈の加勢もあって、僕たちは2020年の7月に籍を入れた。僕たちの歪な結婚生活は、長谷川が危惧していたような仮面夫婦的なものなんかではなく、僕にとっては潤いに満ちた素晴らしいものだった。冴子は頻繁にオンライン飲み会をやっていたが、それ以外の時間は僕たち二人は寄り添って過ごした。レンタカーを借りて葉山をドライブしてみたり、高い牛ヒレ肉を取り寄せてワインと一緒に楽しんだり、あるいは朝までソファに寝っ転がってNetflixの韓国ドラマを一気見したりと、社会の制限をある種の縛りプレイと見做して些細な幸せを積み重ねていく——少なくとも僕はそう思っていた。
二人の生活は1年半ほどは大きなケンカやトラブルもなく生き延びたものの、世の中がかつての日常を徐々に取り戻しつつあった昨年末、冴子による契約条項①の申し出によって突然終わってしまった。冴子の社交がまた復活し、うちに帰ってくるのが24時を平気で過ぎる日が何日も続いたことに対して、僕がちょっとした抗議をした翌日のことだった。
「別に嫌いになったとかじゃないし、もちろん他に好きな人ができたとかってわけでもないよ。ただ、私たち二人とも、結婚に向いてなかっただけなんだと思う」
聡明で、普段から言いたいことを変にボカしたりしない彼女は、そこで敢えて「私たち二人とも」という言葉を選んだ。この結婚の破綻の原因は僕だけでなく、彼女にもあるのだと宣言するように。それはきっと、僕を慰めるためのリップサービスではなく、彼女にとっては紛れもない事実なのだろう。
大好きな冴子との離婚は僕の自尊心に二度と回復しないほどのダメージを与え、その日を境に僕の恋愛体質はショック療法を受けたように全快した。実のところこれは全快ではなく、ある種の一時的麻痺なのかもしれない。とにかく僕の人生からは、かつてあれほどの時間や精神的コストを搾取してきた恋愛という強欲な存在が消え去り、代わりに「自由奔放すぎる妻に無残にも去られてしまった、どちらかというと一方的な被害者の立場の哀れな男」の役を演じなくてはならなくなった。
「何か新しいことしたらいいんじゃないか、新しい環境に引っ越すとか」
冴子が出て行ったその日の夜、長谷川は幾つか具体的なアドバイスを提示してくれた。そうして僕は去年の秋に打診を受けていたが、当時は新婚生活を理由に断っていた住み込みでのシェアハウス運営サポートの話をふと思い出し、その日のうちに「すみません、あの話ってまだお願いできますか?」と上司に連絡したのだった。
「最近、ずっと不安なんだよ。真綾に言われるがままに何となく結婚して、結婚生活がうまく行くのかなって。だから、お前には忌憚のないアドバイスをしてほしいんだ。12歳からの付き合いだろ。俺のことなんて、真綾よりもよく分かってるだろうしさ」
アミューズで出てきた無花果のカナッペを齧りながら、ロクにこっちも見ずに長谷川は言う。僕と長谷川は男子校時代の6年間、まるで番のようにずっと一緒に過ごしていた。友達グループには他にも3、4人いたはずだが、どういうわけか中高の思い出を振り返るとそこには長谷川しかいない。しかし、大学に入ってから僕たちは変わった。正確には、僕が変わった。小学校以来の共学という環境に放り込まれた僕は突如として重篤な恋愛体質を発症し、次から次へと好きな相手を作り、その何人かと付き合ってはすぐ別れてを繰り返した。まだ大学生の間は長谷川と一緒に過ごす時間も多かったが、結婚後はすっかり冴子とばかり過ごすようになり……元は親友だったはずの彼に、この1年と少しの間、例のホームパーティのようなたった数回を除いてほとんど会わなくなるという不義理を働いた。にもかかわらず、長谷川は僕が「離婚した」といきなり電話した日にはすぐに飲みに誘ってくれて、その後も何かと気にかけてくれて、今日もこうして、自分の人生の進捗を誰よりも早く報告してくれて……冴子を失い、恋愛という選択肢を失った今の僕にとって、身勝手な話だけど、彼は数年ぶりに再び親友以上の存在になったのだ。
長谷川から秋にやるという結婚式の候補日なんかを聞き取りながら、僕は「ああ、任せといてくれよ。お前のことと同じくらい、結婚生活の失敗については誰よりも詳しいからな」と無理やりおどけておいた。
長谷川と解散したのは23時過ぎだった。池尻大橋駅で電車を降りて、数分歩けばクロスポに辿り着く。エントランスに近づくにつれ、僕はある異変に気付いた。こんな時間だと言うのに、ラウンジには煌々と明かりが灯され、若者特有の甲高いざわめきが漏れていた。
「え~めっちゃ人懐っこい! 飼い猫が逃げてきたんじゃない?」
「違うよ、ほら、耳のとこ見てみなよ。V字のカットが入ってるから地域猫だよ」
「地域猫って何? 野良猫と違うの?」
ラウンジの入り口に置かれているソファの足元に、一匹の黒猫がいた。十数人の入居者に取り囲まれているというのに、その猫は随分落ち着いた様子で、コンクリート打ちっぱなしの床に腹ばいになったまま熱心に右足を舐めていた。
「コンビニにアイス買いに行った帰りに、ドアの前で丸まってるのを見つけて。近寄っても逃げないし、ドアを開けたらのそのそ入り込んできちゃって。まだ子猫だし、追い出すのもかわいそうなので、今夜だけでも面倒を見ようとみんなで話し合っていたところなんです。ここ、ペット禁止じゃないですよね?」
椎名さんという女の子が事情を説明してくれた。館内規則には確か、生き物の持ち込みは禁止だと書かれていた気もするが、僕が目を瞑ればいいだけの話だ。「別にいいよ」と、ほんのちっぽけな権限をせめて行使しようと思ったところで、猫が突然起き上がると駆け出し、沼田くんの足に体を何度も擦り付けはじめたのだった。
「懐かれても困るなぁ、僕は軽度の猫アレルギーなんですよ」
突然自分のところに降ってきた幸運を誇るように沼田くんは猫の頭を撫で、舞い上がった微細な毛で盛大にくしゃみをした。
*
その日を境に、「ヨシハラ」はクロスポのラウンジや中庭に出入りするようになった。ヨシハラとは例の黒猫のことで、その名前は民主的な投票によって選ばれたものだった。沼田くんが「昔こういう名前の図々しい知り合いがいたから」というよく分からない理由で提案したものだったが、あちこちの陽だまりを図々しく独り占めして寝ている姿にふさわしく、また猫が一番懐いている沼田くんにこそ命名の権利があると思えたのだ。ただ、僕たちからすれば「図々しい」という言葉は沼田くん自身にこそ似合うような気もしたけど。
「近所の人たちに事情を聞いてみたんだけど、昔このあたりにエサやりおばさんがいて、そのせいで野良猫がたくさん居着いてしまったんだって。当のエサやりおばさんは施設に入ってしまったから、地域の人たちがボランティアとしていわゆるTNR、つまり野良猫を捕獲して、不妊・去勢手術をして、決まった場所でエサをやったりトイレを用意したりして、地域猫として管理し世話をするっていう活動をしているみたい」
大学一年生の椎名さんはこのエリアの地域猫について熱心に調べ上げ、土曜日の昼過ぎにみんなに共有してくれた。彼女は幼少期を過ごしたニューヨークで世界最先端の動物愛護精神を培ったらしく、日本に戻ってからも様々な動物関連のボランティアに従事してきたという。帰国子女と聞いて、ことあるごとに「アメリカでは」と出羽守をやるんじゃないかと最初のうちは身構えていたが、脇谷くんと違って僕たち社会人チューターに世代論のゲバ棒を振りかざすこともなく、かといって大人に遠慮して言うべきことを言えないなんていうこともない。とにかく淡々と、しかし確かな熱意をその小さな体の内に秘めた不思議な女の子だった。別に選挙をしたわけでもないが、最年少の彼女が大学生入居者のリーダー役ということに自然となりつつあるようだった。
「私有地に勝手に入りこんでくる地域猫のことをよく思っていない人もいたり、ボランティアをやっている人たちがうまく連携できていなかったりと、まだまだ解決すべき問題は多いみたい。どうかな、クロスポを拠点にして、近隣住民や行政も巻き込みながら地域猫問題に取り組んでみない?」
椎名さんの提案にラウンジに集まった20人ほどの若者たちは続々と「賛成!」と声を上げた。彼らはさっそく「まずは現状分析だね、聞き取り調査の範囲を広げて、反対派の意見も拾えないかな?」「行政のほうで何か補助制度を用意してないか調べてみよう」とネクストアクションプランを次々と出してきたので、僕は驚いてしまった。
「ほら、これがZ世代ですよ。僕たちは小中学生のうちから課題解決や個人の問題意識を大切にする教育を受けてきたから、手慣れたもんです」
脇谷くんがわざわざ僕のところにやってきて、誇らしげに耳打ちした。そういえば最近は大学受験も半分近くが推薦入試になったというから、こうした若者の変化はそういうところにも端を発しているのかもしれない。
「つまり、自発的にZ世代をやってるわけじゃなくて、教育されて望まれた通りにZ世代らしく振る舞ってるってことですかぁ? それだったら、学校の先生たちに言われるがままに勉強ばかりしてきた僕たちと何が違うって言うんですかねぇ」
へぇ~すごいね、と感心してみせた僕を尻目に、得意げな脇谷くんに水を差したのは沼田くんだった。多少は図星だったのか、脇谷くんは「そういう『本質は変わらないおじさん』が若者に嫌われるんですよっ」と捨てゼリフを吐いて若者たちの輪の中に戻っていった。
「しかし沼田くんも、ヨシハラのおかげで地域猫問題に興味が湧いてきたんじゃないの?」と、僕はやや意地悪な質問をしてみた。どうにかチューターらしく振る舞おうと四苦八苦している僕とは違い、沼田くんはチューターだなんてものはこのシェアハウスに無料で住むための便宜的な肩書きに過ぎないとばかりに毎日何もせず過ごしている。そんな彼が、自分に懐いてきた猫をきっかけに改心したのだとしたら、そこには滑稽な愛らしさがあるような気がしたのだ。
「そんなことはないですよ。猫は移り気ですから、ヨシハラだって、いついなくなるとも分かりませんしね」
沼田くんはいつものニヤニヤを崩すことなく、ヨシハラの背中を優しく何度か撫でて、そしてまた盛大なくしゃみをした。彼がズズズと鼻を啜る音を聞きながら、僕は若者たちの活気に満ちた議論の行方をぼんやりと眺めていた。「知ってるよ」と僕は言おうとして、やめた。時折事務的な連絡は取っているが、冴子とは離婚してからずっと会えていない。もしかすると、誰の過去にも自分を置いて去ってしまうヨシハラがいるのかもしれない。
「ほら、彼らも手伝ってくれるんです、篠崎くんたち。彼らは高校生のとき、偶然にも同じNPOにジョインしてシロクマの保護活動に従事していたそうだから、きっと動物愛護の観点から椎名さんに共感してくれたんですよ。こういうふうにですね、Z世代はただ大人に教え込まれた価値観をなぞるだけじゃなくて……」
さっきの沼田くんの指摘がよほど腹に据えかねたのだろう、リベンジマッチのためにわざわざ戻ってきた脇谷くんが、椎名さんが主導する議論の輪の右端から少し離れたところにいる5人を指さした。篠崎くんは法政の3年生で、確かに入居審査にあたって彼が提出したエントリーシートにはシロクマの話が書いてあった。シロクマの話。僕はそこに、何かとうの昔に忘れてしまった引っ掛かりがあるような気がして、彼らの方へと近づいて行った。
「……ああ、楽しみだなぁ」
「地域猫活動に取り組んでいる区議を、椎名さんが早速見つけたそうだよ」
「区議がきっと僕らのところに来てくれるに違いない」
「区議が来たら次は都議で、その次は国会議員だ」
「きっとニュースになるに違いない」
「新聞には出るだろう、もしかしたらテレビにも出るかもしれない」
「地域猫のために活動する正しい学生として、僕たちの写真が載るかもしれない!」
「ああ、楽しみだなぁ」
「正しいことは楽しいなぁ」
「ああ、もっと正しいことがしたい」
「分かる」「分かる」「分かる」
異様な会話が徐々に聞こえてきて、僕は彼らに話しかけずに、まるで最初から彼らに用事なんてなかったかのようにソファに戻った。
「あれ、早かったですね。どうです、話せましたか? 気のいい連中でしょう」
僕が離れている間スマホをいじるのに熱中していたのだろう、そんな事情なんて何ひとつ知らない脇谷くんが明るく話しかけてきたので、僕は「そうだね」と適当にお茶を濁して、活発な議論を続けている若者をチューターらしく見守ろうと試みた。しかし、鼓動はなかなか落ち着いてくれなかった。
*
僕/私はある夏の日、思い立って動物園に足を運んだのですが、そこで暑さにうだるシロクマを目にしました。小さい頃だったら「シロクマも暑くて大変だなぁ」で終わったんでしょうが、高校生になった僕/私は違いました。シロクマの向こうに、北極が見えたんです。薄緑色の氷が温暖化のせいでジジジと微細な音を立てながら溶けてゆく。シロクマが窮地に追いやられている北極の現実——僕/私は、自分の無知と無力を呪いました。テレビで何度も見てきた「シロクマが苦しんでいる」という状況がどのような仕組みで起こるのか知ろうともせず、あの愛らしいシロクマが苦しんでいる現状に対して何もせずにのうのうと過ごしてきた情けなさで胸がいっぱいになったのです。それで僕/私は両親を説得し、資金をクラウドファンディングで集めて北極へ旅に出たのです……
やはりそうだ。僕はその日の夜、自分の狭苦しい部屋の中でパソコンの画面を見ながら呟いた。全部で5人。5人の大学生入居者が、シロクマにまつわる全く同じエピソードを書いていた。
入居希望学生の審査を委託していた外部業者から受け取った、エントリーシートや面接のデータ。落選者を含めて全志望者の記録を読み返してみると、例のシロクマのエピソードを書いている学生が篠崎くんを含め5人いたのだ。彼らは全員合格し、今もこのシェアハウスに住んでいる。
なぜ選考時に違和感を覚えなかったかというと、一応の言い訳みたいなものはある。僕も最近になって新卒採用の一次面接官をやるようになったからよくわかるのだが、学生の話なんてだいたい同じようなものばかりだ。自分が就活をしていた頃を思い出しても、学生時代に頑張ったことを問われても「バイトの副リーダーとしてお店の売り上げを1・2倍に」とか「テニサーの副代表として新歓合宿の参加者を1・2倍に」とか、真偽も怪しい同じような話ばかりだった気がする。だから、シロクマを助けるために活動している大規模なNPOか何かが流行っていて、そこにたくさんの学生が熱意に駆られて参加しているのだろうと、当時の僕は思考停止してしまっていたのだ。
「妙な噂を聞いたことがあるよ」
人事部で新卒採用を担当している同期の三浦さんを捕まえて聞いてみた。
彼女の話によると、3年前から「ヨシハラ義塾」という高校生向けのオンライン塾が人気で、そこでは大人が喜びそうな様々な体験をパッケージで売っているのだそうだ。つまり、高校生たちが自主的に獲得したい経験ができるようサポートしてもらうのではなく、「こういうのが大学にウケますよ」というメニュー表が先にあって、その選択肢の中から自分がする経験を選ぶのだ。クラウドファンディングの立ち上げからそれっぽいNPO、交通手段に宿泊ホテル、現地での証拠写真の撮影まで、すべてヨシハラ義塾がお膳立てしてくれる。その代わり、生徒たちの親は記録が残るようクラファンに必要金額を小分けにして振り込み、さらにヨシハラ義塾にはコーディネート費やらコンサル費やら高額な手数料やらを支払うのだという。それらはいつか脇谷くんが言っていたように推薦入試が主流になりつつある現代においては立派な大学入試対策であり、教育熱心な父母や意識の高い生徒の間ではそれなりに有名な存在なのだそうだ。
それで味をしめたのか、最近は大学の推薦入試だけでなく、就活マーケットにまで進出しているらしい。
「界隈では通称『シロクマエピソード』って呼ばれてるんだけど、ESとか面接でまったく同じような話をする学生が相当数いて。現に私も最近何人か遭遇したことがある。変に芝居がかった語り口までまったく一緒で、何かこう、ゾッとしちゃった」
俄には信じがたい話だった。もしその話が本当だとしたら、篠崎くんたちは確かに北極には行っているが、その崇高な旅のもっともらしい動機は噓ということになる。見抜けずに彼らを入居させた僕たちにも落ち度はあるが、これは立派な詐欺行為ではないか? しかし、いつだったか沼田くんが指摘していたように、僕たちだって行きたくもない塾に小学生のうちから通わされて、親や先生に言われるがままに受験対策に励んできた。僕たちと彼らは、本質的に同じ罪みたいなものを共有しているのではないか?
僕の頭はぐるぐると空回りして、次にどうすべきかも思いつかなかった。どうにか心を落ち着けて、まずは情報を収集しつつ篠崎くんたちのことを観察してみよう、という穏当な方針を僕は定めた。
*
まだ築浅のマンションの窓からは、スカイツリーがよく見えた。
「どうだ、いい景色だろう。角部屋といっても北向きと西向きだから日当たりはよくないんだけど、川沿いに建ってるおかげで見晴らしがよくて、内覧した当日に申し込んだよ」
窓辺に立ってぼんやりと外を眺めていたら、長谷川が隣に立っていきなり肩を組んできた。悪戯のつもりか僕の首に押し当てられた、よく冷えたオリオンビールの缶を無言で受け取り、発泡性の液体を喉に流し込んだ。
それまでは蔵前に住んでいた長谷川と、大森の実家に住んでいた真綾ちゃんは7月から遂に一緒に住むことになり、新たな愛の巣として選ばれたのが清澄白河の隅田川沿いの中層マンションだった。「ここ数年のマンションの値上がりヤバくてローン通るか心配だったけど、真綾の実家が援助してくれて自己資金を結構入れられてさ」とのことで、一介のサラリーマンである長谷川は無事に素晴らしい新居を購入することができたのだった。
「しかし大変だったよ、真綾が相当うるさくてさ。内覧行きまくってたかと思えば住宅購入ブログみたいなのを読み込み始めて。『ここはアウトフレーム工法なんだね』『平米単価で見ると修繕積立金高すぎない?』とか言い出した時にはどうしようかと思ったよ」
笑いながらそう愚痴った長谷川がオリオンビールをゴクリと飲むと、「誰かさんが真面目に探さないから、仕方なく私が色々勉強しないといけなくなっただけですぅ~」と真綾ちゃんはキッチンでカルパッチョを用意しながら、頰を膨らませて抗議した。彼女はここ最近お料理教室やワインスクールに通っているそうで、今日の気合の入れようは大変なものだった。
「しかし皮肉なもんだな。去年の今頃は僕たち夫婦が二人を呼んでホームパーティをやってたのに、僕が至らなかったせいで今日のパーティには欠員が出ちゃった」
おそらくはみんながハラハラしているこの手の話は当事者が早めに吐き出して笑いに変えておいたほうがいい。真綾ちゃんはどう反応していいものか判じかねているようだが、僕と夫婦漫才のようなコンビネーションを長らくやってきた長谷川は手慣れたもので、間髪を容れずゲラゲラと笑ってくれた。「どうだ、ワインでも飲むか。このあいだ社販でコスパ良いって評判のカヴァを買ったんだ」と長谷川は空気を自然に変えようと、いつか誰かがそうしていたように、セラーから深い緑色のワインボトルを出してきて、楽しそうに小さく揺すってみせたのだった。
極めてそつのない仕切りによって、ホームパーティは粛々と進行していった。仕切りの主はもちろん真綾ちゃんで、いつだったか「別に全部やらせるつもりはないけど、実家育ちのせいか家事全般がまったくできなくて不安」と長谷川がボヤいていたのが噓のようだった。もちろんそれは、この新生活に向けた彼女の鍛錬の賜物に違いない。一方僕は自分の中に、不思議なもの寂しさみたいな感情を見出し始めていた。「部屋着が歳の割にかわいすぎてキツい」「本読んでなさ過ぎて話が合わないことが結構ある」「職場の同僚の女の子と会わされたけど、みんな婚活意欲ヤバすぎてめっちゃ独身男性紹介しろって頼まれる」……ここ半年、長谷川からありとあらゆる不満を聞かされていたし、そのたびに「まぁ、最初から完璧な相手なんかいないんだから、うまくアジャストしていくしかないよ」と結婚生活の経験を盾に偉そうな擁護を真綾ちゃんに対して行っていたが、僕は内心ではそれをいちいち喜んでいたかもしれない。それはきっと——長谷川と真綾ちゃんのこれから始まる結婚生活が、主に真綾ちゃんの様々な力不足のせいで十分に幸せなものにならないことを、なかば祈るように信じたかったせいなのだろう。理知に富んでいて、それでいて明るく気さくで、僕のあらゆる悲しみを喜んで分担してきてくれたあの長谷川が、僕がしくじったのと同じ方法で、しかし「俺はそんなふうにしくじったりはしないよ」と涼しい顔で、僕を置いて人生を前に進めようとしていることへの悲しみ——。
「この人、酔っ払ったら中高時代の体育祭のこととか、ゼミ合宿の話とか、思い出話ば~っかり話してくるんですよ! その話はもう何度も聞いてるって言っても、全然やめてくれなくて」
汚れた取り皿を回収しながら、真綾ちゃんが僕の目をにこやかに覗き込んで話しかけてくる。彼女はきっと、僕の結婚がどうして破綻したのかくらいは長谷川から聞かされているのだろうが、長谷川が陰で様々に彼女を批判していたことは知らないのだろう。今日の会だってきっと、長谷川の重要顧客である僕を味方に付け、今後の結婚生活を少しでも強固にするためのものに違いない。僕は彼女に対して、どうしてもそういう穿った見方をしてしまうのだった。
「真綾ちゃんは、どうして結婚したいって思ったの? ほら、ブライダル業界が『結婚しなくても幸せになれる時代』だって言ってるくらいだし、Z世代たちにとっても結婚はひとつの選択肢に過ぎないそうだよ」
無垢で無知な子供のような顔をして、しかし意地悪さが潜んだ質問を僕が投げかけるのを、長谷川はガラス皿に残ったカルパッチョをつまみながら、ロクにこっちも見ずに黙って聞いていた。
「えぇ~、どうしてって……。二人でこれからもずっと一緒にいたかったし、子供とか先々のことを色々考えたら、結婚って自然な選択肢じゃないですか? 私ももうそんなに若いわけじゃないから、ちゃんと人生固めときたいって感じもあったし」
長谷川がそうしているように、僕もそれを黙って聞いて、ニッコリと笑って頷いてやった。つまり真綾ちゃんは、長谷川に対する愛情みたいなものもあるんだろうが、人生ゲームの好ましいマス目を着実に踏んでゆくための「自然な選択肢」として結婚を要求したというだけなのだろう。そうに違いない……こんなふうに、僕が彼女に対してどうしても持ってしまう攻撃性みたいなものの存在を僕はよく認識している。結婚を純粋な愛に至るための手段ではなく、相手を少しでも束縛したいとか、自分の人生を平均的な形に積み上げたいとか、そういう正しくない動機を実現するための手段として使おうとしているくせに、世間の皆さんには「私たちは心の底から愛し合っていて、その表現の一部として結婚しただけです!」みたいな顔をしている。そして、そこに今まさしく長谷川が無抵抗のまま巻き込まれ、飲み込まれようとしている。僕にはきっと、その事実が耐えられないのだろう。
「そういえば、シェアハウスで地域猫の活動をやっているそうですね。実は私も学生時代にやってたんです、ボランティアサークルみたいなのに入ってて」
空気を変えようとしてか、真綾ちゃんはいきなり新しい話題を明るく振ってきた。今後長い付き合いになるであろう夫の親友との関係を良好にすべく、彼女が親切にも差し出してくれたその機会を、しかし僕は素直に受け取ることができなかった。
「そうなんだ。でも他にも取り組むべき社会問題はたくさんあるよね、どうしてその中からわざわざ地域猫を選んだの?」
きっと「そうなんだ! 猫かわいいよね~」みたいな反応を期待していたのだろう。真綾ちゃんは僕の事情聴取みたいな口調に面食らいつつ、どう答えるのが正解だろうかとお行儀のいい笑顔の下で必死に悩んでいるようだった。
「えっと……立派な理由があるわけじゃないんだけど、動物は大好きだし、犬より猫のほうが好きだし、それに、サークルの雰囲気もよかったし……」
「おいおい、そんな詰めないでやってくれよ」
それまで黙って様子を見ていた長谷川が、苦笑いしながら真綾ちゃんに助け舟を出した。何だか僕が彼女をいじめているみたいだった。そのうえ長谷川が僕か真綾ちゃんの二択で僕ではなく彼女を選んだような気がして、やるせなかった。「別にそういうつもりじゃ……」と不服を表明しかけたところで、長谷川は遮った。
「俺はな、真綾のそういうまっすぐなところが好きなんだよ。お前もそうだけど、中高の友達も、SFCの連中も、みんな何をするにも正しい理屈や動機がないと気が済まないだろ。でも真綾は違うんだ。好きなものがあったら、とにかく飛びつく。だから、こいつといると世界が広がるような、毎日少しずつ違う人間になれるような感覚があるんだ。ほら、最近ハマってるサウナもマダミスも、真綾が教えてくれて始めたんだよ」
そういえばインスタを見る限り、長谷川はここ数年突如としてミーハー趣味に色々と手を出していたが、それは真綾ちゃんの影響だったらしい。長谷川はきっと僕の真綾ちゃんに対する不当な苛立ちを鎮めるべく、彼女の肩を持つような説明をしたつもりなのだろうが、それは一層僕の神経を逆撫ですることになってしまった。長谷川が真綾ちゃんのせいで変えられてゆき、僕が知っていた、そして僕が多くの時間を共に過ごした長谷川が一秒ごとに少しずつ死んでゆくような感覚に襲われたのだ。そのうえ、僕は「お前もそうだけど」と雑にまとめられたことにまず、異議を申し立てたかった。僕はSFCの連中なんかよりもむしろ真綾ちゃんに近いだろうと、僕と真綾ちゃんを区別して優劣をつける必要なんてないだろうと叫びたかった。
「結婚だってそうだよ。正直、まさか自分が結婚するなんて考えてもなかったけど、真綾が結婚したらきっと楽しいよって言ってくれて、真綾がそう言うならそうなのかもな、と思えたんだ。昔の俺を知ってるお前からしたら信じられないだろうけど」
早くもワインで酔いつつあるのか、長谷川が珍しく感傷的なことを言うのを、僕は曖昧な相槌で肯定してみせることしかできなかった。置いていかれたものの悲しみ——この感情の正体に、僕は徐々に気付き始めていた。西向きの窓からどろどろと流れ込んでくる濃密な夕日が部屋を満たし、それが喉に詰まって息がしづらいような錯覚に襲われた。しかし僕は精一杯、まるでそれがこの場のドレスコードであるかのごとく、長谷川や真綾ちゃんと同じように微笑みを顔に張り付けていた。
「俺、たぶん一生結婚しないと思う。恋愛とかよく分かんないし」
駅まで送るよ、という二人の申し出を丁寧に辞退した清澄白河駅までの孤独な道程の中で、僕はふと長谷川がいつか言っていた言葉を思い出していた。高校時代、やることがない僕たち仲良しグループは、「なんか、売れてる若手男性アイドルと雑誌モデル出身の若手女優がセリフ棒読みしてる恋愛映画見に行きたくない?」という誰かの冗談を実践すべく池袋の映画館で本当にその手の映画を見て、「あ~これ以上の無駄遣いはなかっただろ」とか自慢げにボヤきながらマックに行って、そこで「恋愛に入れ込んでる連中はきっと他にやることがない暇人に違いない」とか誇らしげに語り合った。長谷川があの言葉を言ったのは、そんなある日のことだった。事実、彼は中高時代はもちろんのこと、大学に入っても誰かと付き合うことをしなかった。一方、確かその時は「そうだよね、恋愛してる暇あったら青チャートでもやってたほうがいいのに」とか言ってたはずの僕は、大学に入った途端にあの有様だ。あの頃、長い時間と多くのものを共有してきたはずの僕と長谷川は、一体どこがどう違ったのだろうか? 頭がぐるぐると混乱してきたし、長谷川に勧められるがままにお酒を飲みすぎた。社会人が泥酔して帰ってくるなんて大学生たちに示しがつかないから、僕は気分を落ち着けるために渋谷で電車を降りて歩いて帰ることにした。まだ20時過ぎだった。週末の夜の道玄坂の混雑も円山町を過ぎたあたりには収まり、玉川通りには首都高の高架を行き交う車の走行音が羽虫のように満ちていた。神泉に差し掛かると、前方に見慣れた店が現れた。この間、長谷川と行ったフレンチレストランだった。
「来年からは酒飲むのも仕事になるからな、勉強も兼ねてこういう店にも行くようにしようと思うんだ。でもデート向きの店に誘える女の子はいない。それでどうだ、一緒に行ってくれないか?」
就活を終えたばかりの大学4年の春、この店に僕を誘ってくれたのは長谷川だった。僕は僕で商業施設の開発や運営なんかをこれから仕事でやる可能性があったし、それに何より、社会人生活がすぐそこに迫ってきている中で、背伸びしたい年頃だったのだろう。いつか恋愛映画を男だけで見に行ったときと同じような悪戯っぽい動機で、今度は僕たちは記念日を祝うカップルだらけのフレンチレストランに乗り込んだのだった。「テーブル席とカウンター席、どちらがよろしいですか?」と聞かれて、僕たちは顔を見合わせて笑いながら「カウンター席でお願いします」と即答した。肩を寄せ合って、しかしお互いの顔を見ることなく、野菜がふんだんに使われた過剰に健康的なフレンチを食べた。意外と味が良かったこともあって、二人ともすっかりこの店を気に入って、その後も定期的に二人で訪れた。
「ついにこの店に連れてきてもらったってことは、私も長谷川の代わりになれたってことなんですかねぇ」
数年後、そのカウンター席で僕の隣に座っていたのは冴子だった。当時付き合っていた彼氏と別れたと聞くや待ち構えていたようにすぐさま僕は彼女にデートの打診をして、食事の場所として選んだのがあのフレンチだったのだ。長谷川の代わり、というのは知的な彼女らしいジョークだったのだろうが、僕は心の触れられたくない襞を指先で撫でられたような気分がした。言われてみると、たしかに僕はこのお店にこれまで付き合ってきた女の子たちを連れてくることはなかった。その夜そうやって冴子と一緒に来たのは、第一には彼女が僕にとって長谷川と同じくらい大事な存在だったためだろうし、第二にはきっと、長谷川が数ヶ月前にいきなり「彼女ができた」と僕に告白してきたせいもあるんだろう。
「顔もタイプじゃないし、性格も話も合う訳じゃないけど、まぁ向こうがどうしても付き合いたいって言うから、一回くらいはいいかなって」
まるで取るに足らない人生経験について語るように、長谷川は僕に真綾ちゃんと交際するに至った経緯を語ってみせた。へぇ、まぁいいんじゃない、と何てこともないように軽く反応しておいた僕の内心は、実のところ激しくザワめいていた。いつでも同じ場所にいてくれて、いつでも傷ついて戻ってきた僕を温かく迎え入れ、抱きしめてくれる長谷川がいなくなってしまう——その冷たい予感は現実のものとなった。それは、長谷川に彼女ができたからではなく、僕がその直後に冴子と付き合い始めて、彼と連絡を積極的に取り合わなくなったためだった。
「長谷川の代わり」。冴子はきっと、大学時代から僕たちの関係の本質を見抜いていたのだろう。僕はいつだって訳もなく不安で、常にその不安を消してくれる依存先を求めていて、その最大の相手が長谷川だったのだろう。しかし僕は、身体的な関わりを含めてもっともっと深く、入り組んだ依存関係を恋愛の中に発見してしまった。それで恋愛と長谷川との間の反復横跳びが始まり、最終的には冴子との結婚に至った。
「ただ、私たち二人とも、結婚に向いてなかっただけなんだと思う」
とにかく冴子は結婚という檻の窮屈さに最後まで適応することができず、僕だけをそこに残して去っていってしまった。その半年ほど前、インスタを見ていたら長谷川がストーリーを投稿していた。例のフレンチで真綾ちゃんの誕生日を、いつものカウンター席ではなくテーブル席で祝っていた。長谷川がこの店に僕以外の人を連れてきているのを初めて見た。
冴子、真綾ちゃん、そして長谷川……様々に混ざって、最終的に薄汚い色になってしまった感情を隠しながら、僕はレストランのガラス扉から漏れるオレンジ色の暖かい光の中を黙って通過した。
*
椎名さんの地域猫活動は順調な滑り出しを見せていた。この地域に10匹程度いるという地域猫たちの生態や、猫たちの世話をしているボランティア団体の活動情報を収集し、ラウンジの壁に貼ったマップにそれらを次々と書き込んでいった。また、この問題に熱心に取り組んでいる世田谷区議に連絡を取ってみると、翌日には彼女はクロスポを訪れたのだった。
「若者が地域の問題に積極的に参加すること、本っ当に素晴らしいと思います! 区としてもより一層のサポートができるようにします」
自身も二匹の猫を飼っているという愛猫家の久保みつこ議員は、沼田くんが抱いて連れてきたヨシハラを膝の上で撫でながらそう約束してくれ、最後には彼女を入居者たちで囲んで記念撮影をした。その写真はその日のうちに久保みつこ議員のFacebookやブログに大絶賛の文言とともにアップされたのだった。それをきっかけに、彼女と親交のある議員や動物愛護に関して同じ志を持つ議員が次々とクロスポを視察しにやってきて、記念写真を撮って満足げに帰るようになった。大人たちはみんな、今っぽい若者と交流し、今っぽい若者を褒めることで、まるで自分たちは若者と理解し合えているのだとアピールしたいのだろう。
一方で、残念ながら現時点では椎名さんたちの地域猫問題への取り組みは成果らしい成果を出せていないようだった。近隣のいくつかのボランティア団体がラウンジに集まり、知見の共有をしたという実績こそ生まれたが、それ以上のものはなかった。言われてみると当たり前で、この手の伝統的ともいえる社会問題に、ただ意識が高いだけで特に専門知識のあるわけでもない若者たちが数ヶ月取り組んだところで、簡単に大きな成果が得られるものでもないのだ。しかし不思議なことに、そんな足踏み状態の中にありつつもほとんどの入居者たちの顔はイキイキと輝いていたし、彼らと懇談するためにわざわざ忙しい中やってくる議員たちも同様だった。ただし、椎名さん一人を除いて。
「正直、焦ってます。色んな人が応援してくれたり、褒めてくれたりするのはありがたいんですが、何だかまるで『お前は若者代表、Z世代代表でいさえすればいい』とでも言われているような気がして。すみません、ちゃんと成果を出していれば、こんなことでウジウジ悩まなくていいのかもしれないけど」
椎名さんはあるとき僕を捕まえて、そんな悩みを打ち明けてくれた。もしかすると彼女は周囲の人たちが勝手に作り上げた理想に無理やり押し込まれようとしていることへの不安の中にいるのかもしれない。彼女自身も僕からの答えを求めているわけではなさそうだったし、僕も軽々しくそれっぽい答えを言うのは違うと思ったから「椎名さんのメンタルが健康に保たれていることが最優先だと思うから、無理はしないようにね」とだけ伝えた。
「ところで」と、部屋に帰ろうとしていた椎名さんを僕は呼び止めた。ずっと聞いてみたいことがあったのを思い出したのだ。
「椎名さんは、どうして地域猫の問題にこうも真剣になれるの? 何かこう、人生を変えてしまうようなきっかけみたいなものがあったのかな」
どうも椎名さんは学生たちの中で明らかに毛色が異なっている。脇谷くんのように、Z世代らしい振る舞いをしたい気持ちをぶつけるでも、あるいはZ世代代表という誇らしい肩書きを得るためでもなく、彼女だけが純粋な気持ちで問題と向き合っているような気がしたのだ。
「きっかけですか? そうですね……」
私はある夏の日、思い立って公園に足を運んだのですが、そこで暑さにうだる黒猫を目にしました。小さい頃だったら「クーラーの効いた部屋で寝転ぶ飼い猫とは違って、野良猫は暑くて大変だなぁ」で終わったんでしょうが、高校生になった私は違いました。ただの野良猫ではなく地域猫らしきその生き物の向こうに、北極が見えたんです……
「……だなんて、冗談ですよ。ベタですけど、小さい頃に猫を飼ってたので、昔から猫好きなんです。つまらない理由でしょ?私にも、篠崎くんたちが主張するような分かりやすい理由があるといいんですけど」
椎名さんのとんでもないブラックジョークに僕は面食らってしまい、彼女は彼女でそんな僕の反応を見て、悪戯っぽく笑っていた。
「知ってますよ、篠崎くんたちのこと。シロクマのことも。でも別にいいんです。どんな動機だったとしても、たとえ内申点や推薦入試のための噓だったとしても、結果として正しいことをしてるんだとしたら、何もしないよりよっぽどマシですよ。完璧で正しい自分でいなくちゃいけないっていう強迫観念? そういうのがみんな強すぎるんじゃないかな。脇谷くんなんかを見てると、特にそう感じます」
何となくZ世代的価値観の原理主義者のように見えていた彼女のそんな柔軟さに、僕は驚いてしまった。こんなことを言ったら脇谷くんにまた「そういう『本質は変わらないおじさん』が若者に嫌われるんですよ」と怒られてしまいそうだが、彼女の論理はきっと、若者の地域猫活動だけではなく、あらゆる人たちによる「正しそうな行為」全般に適用されるように思えた。例えば、僕の結婚にも。それは客観的な判断というよりも祈りに近かったのかもしれない。みっともない束縛から始まった僕たちの結婚が、その動機のせいで「間違ったもの」と見做されてしまうことがありませんように、という自分勝手な祈り。地域猫から始まった話は、シロクマを経て僕自身の過去へと不思議な接続を生んでいた。
「ところで」僕を祈りの世界から現実に引き戻すべく言葉を投げかけてきたのは、椎名さんのほうだった。
「……沼田さんって、お付き合いしてる人がいるか、知ってますか?」
*
「ええっ⁉ いるわけないじゃないですかぁ」
翌朝、食堂で納豆をぐるぐる混ぜながら、沼田くんはなんて愚かなことを聞くのか、とでも言わんばかりの表情を浮かべた。そうだよね、と僕も内心思った。「世界のエリートたちはきちんとした朝食を食べ、一日のスタートダッシュを飾るための活力を得ている」という情報のもと、クロスポでは毎朝こうしてごはんと味噌汁、トーストと目玉焼きといった朝食が出る。
「沼田さんは、ただ無気力なんじゃなくて、きっと考えがあってのことだって思うんです。毎日、ラウンジでヨシハラを撫でているだけで、ほかには何もせず、満ち足りた顔で大学生を黙って見守っている。まるで、私たちに何か新しい道を示しているような……」
沼田くんの魅力をうっとりした表情で語るあの日の椎名さんの話には、確かになるほどそうかもしれない、と不思議な納得感があった。そういえば学生時代に読んだきりだから記憶がだいぶ曖昧だが、パーソンズの宇治田社長の自伝『徹夜ではたらく社長の告白』でもパラレルなことが綴られていた。その刺激的なタイトルからすれば逆説的だが、あの本をきちんと読むと「徹夜ではたらくのは社長だけでいい」、つまり「社員が徹夜しなくても会社が回る仕組みを徹夜で作るのが社長を含むマネージャーの仕事だ」「社員はむしろ過労で潰れないよう、上司の目を盗んでサボるくらいがちょうどいい」ということだった(それなのにタイトルだけが独り歩きしてプチ炎上したのだから不幸な話だ)。沼田くんがチューター懇親会で自慢げに話していた「手を抜いていることがバレないように、しかしクビにならないようにエレベーターのプロジェクトでとんでもない成果を出して新人賞を獲得した」という話が本当だとしたら、沼田くんの存在は宇治田社長が目指す会社が実現していることの証拠であり、彼が理想とする若者のモデルとも言えるのかもしれない。それに、「頑張っても必ずしも報われない社会で疲弊するよりも、日々に小さな幸せを見つけたほうがいい」ということは、この間脇谷くんに言われて読んだZ世代に関する解説本にも書いてあった。そうなってくると急に、あの怠惰な猫愛好家が突如としてZ世代的価値観の最も忠実な体現者に見えてくるのだった。そうである以上は、彼こそがあのZ世代的価値観の女王である椎名さんのパートナーとして相応しいと言えるのかもしれない。
「沼田くんはこれまで、誰かとお付き合いとか、そういうことをしたことがあるの?」と、僕はとんでもなく無礼な質問を無礼を承知で投げかけてみたが、沼田くんはまったく意に介していないようだった。
「まぁ、今のところはありませんけど。別に結婚願望みたいなものはないですねぇ。だって、考えてもみてくださいよ。ある時点での自分の判断で、未来永劫自分を縛り続けるだなんて、あまりに馬鹿げていませんかぁ?」
その台詞——もちろん発言者が違うから若干のアレンジは施されていたものの、決して忘れられないその台詞を偶然にも聞かされたせいで僕の体を駆け巡った衝撃がいかほどであったか、ぜひ想像してほしい。「えっ、なんかマズいこと言いましたかぁ?」と、いつものニヤニヤ顔で僕にまだねちっこく話しかけてくる沼田くんのその後の言葉はもはや、一欠片たりとも入ってくることはなかった。僕だって彼のプライバシーに踏み込んだのだし、彼にだってそうする権利はあるだろう。
「……例えば、沼田くんのもとからヨシハラがいなくなったら、沼田くんはどうする?」
僕が質問に質問で返すという愚を犯したというのに、沼田くんはその点を嬉しそうに指摘するでもなく、大人しく黙ってしまった。
「どうする? 捜しに行く? それとも諦める? 相手を責める? それとも自分を責める?」
沼田くんは引き続き何も言わない。僕だって、おそらくは彼の返答を期待していない。ある意味で、僕は僕に問いかけ、僕からの答えを待っていた。僕が傷心を理由に向き合うことから逃げてきたその問いに、僕は夏の平日のなんてこともない朝ごはんの時間に、どういうわけか突然向き合おうとしている。
「僕は、何もしないと思います。焦って捜しに行くことも、誰かのせいにすることも、それどころか悲しむこともせず、次の日も同じ場所で座っているだけだと思いますよ」
そう言いながら沼田くんは空になったいくつかのお皿や器が載ったお盆を持って立ち上がり、「これからヨシハラにごはんをあげないと。失礼しますね」と言い残すと、僕を置いてそそくさと去っていってしまった。
*
沼田くんが、お隣さんからバケツで水を浴びせられたのはその直後のことだった。
「びっくりしましたよぉ。猫たちのエサを中庭で用意していたら、いきなりお隣さんがノシノシ侵入してきて、喚きながら僕の顔面に水をぶちまけるんだから」
みんなが心配そうに見守る中、濡れた髪をバスタオルでゴシゴシと拭きながら、いつものニヤニヤ顔で沼田くんはまるで武勇伝のようにさっき起きた出来事を呑気に語っていた。別に沼田くんがすべて悪かったわけではなく、最後にお隣さんの行動の引き金を引いてしまったのが彼だったというだけのようだ。一方、椎名さんは悲痛ともいえる表情をしていた。
「近所で聞き込みを進めていく中で、どうも隣の戸建てに住んでいる人が、区の担当部署に匿名で、地域猫について毎日のように執拗な苦情を入れているということが分かってきて。怪文書みたいな苦情の手紙がクロスポのポストに入ってたことも何回かあったし、地域猫のことをよく思ってない人が私たちを攻撃することもあり得なくはないな、とずっと心配していたんですが……」
「まぁ、朝シャンみたいなもんですから。逆にこれから毎朝冷水を浴びようかな、ビックリするくらい気持ちがシャキっとしますよぉ」
当の沼田くんはまったく気にしていないようだが、椎名さんの落ち込んだ気持ちがすぐに回復する見込みはほとんどなかった。彼女の落胆の最大の理由はもちろん、地域猫活動が行き詰まってきていることなのだろうが、もしかするとそれと同じくらい、最近少し気になっている沼田くんに自分のせいで怖い思いをさせてしまったということもあるのかもしれない。
そして、落ち込んでいるのは椎名さんだけではないようだった。普段なら弱音なんか吐かないどころか「こういう逆境でもソーシャルグッドへの情熱を失わない強さをZ世代は持ってるんですよ」だとかこれ幸いと自慢してくるであろう脇谷くんは、どういうわけか椎名さん以上に凹んでいるようだった。他の大学生たちも同様だった。自分が取り組んできたものがもしかすると間違った行いだったのかもしれないという不安は、正しさを最も重要な行動原理とする彼らを大きく揺さぶってしまっているかもしれない。
「何にしろ、みんなの安全が一番だよ。まだクロスポに入居してから半年も経っていないんだし、脇谷くんなんて大学1年生だ。地域猫以外にも活動する先はあるだろうし、悩んでいるなら一度立ち止まってゆっくり考えよう。沼田くんも、とりあえずシャワー浴びてきたら?」
重苦しい空気を変えようと、僕が明るく提案すると、沼田くんは大人しく去っていった。風呂上がりの彼に冷たい麦茶でも飲ませてやるか。冷蔵庫のある2階までわざわざエレベーターを待つのも億劫だから非常階段で上がることにした。
踊り場を過ぎたあたりで、僕は思わず立ち止まった。非常階段から2階の廊下に出るドアの向こうで話し声が聞こえたのだ。
「きっと彼は、区役所にまた苦情の電話を入れるに違いない」
「そうすると、区議はもう僕たちのところに来てくれないのかな?」
「そんな、まだ国会議員も、新聞の取材も来てくれていないのに」
「それは困る、せっかく椎名さんを信じてついてきてやったのに」
「僕たちはこれからどうすれば?」
「ああ、不安だ」
「正しくないことが、こんなに不安だなんて」
「僕たちは被害者だ! 正しいことがしたかったのに、椎名さんのせいで正しくない場所へ連れていかれてしまった!」
「早く正しいことがしたい! そうしないと不安で仕方がない」
「何かないかなぁ、正しいこと」
「そうだ、正しいことがいい。絶対に正しいこと…」
「「「シロクマだ!」」」
この声、この話し方……扉の向こうで作戦会議をしているのは、篠崎くんたちの集団に違いない。決定的な現場に踏み込む刑事のようにドアを開けようかとも思ったが、足がすくんでしまっているうちに彼らは一定の結論に達し、「そうだ、シロクマだ」「シロクマはかわいいなぁ」だなんて言い合いながら、微かな足音とともに去ってしまった。
*
その翌日から、クロスポに何頭かのシロクマが現れた。もちろん本物のシロクマが池尻大橋のオシャレなシェアハウスにやってくるはずがない。篠崎くんたちの集団が、シロクマの着ぐるみ姿で生活し始めたのだ。
「シロクマの気持ちを体験すべきだと思うんです」
「そう、シロクマの気持ち」
「彼らは寒い環境を愛しているのに、どんどん気温は上がり、氷は解けてゆく」
「シロクマは苦しんでいる」
「その苦しみを、僕たちも知るべきだ」
「だから、着ぐるみを自分たちで縫って作ったんです」
「暑いですよ、でもシロクマはもっと暑くて苦しんでるんです」
彼らの着ぐるみはテーマパークにいるようなしっかりとしたものではなく、白いパイル地の布を簡素に縫い合わせた安っぽいパーティグッズのような趣だった。フードには耳と、黒いボタンの目が取り付けられている。彼らがふり向くと、ボタンもぬらぬらと光を反射しながらこちらを向くのだった。
最初のうちは、入居者たちも怪訝な目で遠巻きに見ているに過ぎなかった。しかし彼らが夜な夜な食堂の片隅に集まって、どこから借りてきたのかミシンまで持ち込んで粛々と大量の着ぐるみを作り「これをメルカリで売って、売り上げをNPOに寄付するんです」なんて言い出すと、地域猫活動が停滞期に入ったことで暇を持て余した大学生たちの何人かは面白半分で手伝い始めた。シロクマ活動にジョインした彼らはやがて「すごい、正しさが体に染みてゆく……」などとほとんど絶頂しそうな顔で言いながら、篠崎くんたちのように自作のシロクマの着ぐるみを着て生活するようになった。
「訳が分かりませんよっ。あんなことしたところでシロクマの気持ちなんて分からないだろうし、あんなヘンテコな服を買う人がいるとも思えません。それに僕たちは、別に正しくあるために地域猫活動をやっていたんじゃないんだから、正しさを理由にシロクマに鞍替えするだなんて……」
脇谷くんはどうにか正気を保ち、チューターである僕にこの状況への対処を要求した。しかし僕としてはどうしようもないので困ってしまった。別に入居者全員が一つの活動にだけ従事すべきというわけでもないし、確かにシロクマのためのチャリティというのはまったく正しい行為だから、それを「胡散臭いから」「椎名さんが、なんだか可哀そうだから」と止める理屈なんてないのだ。現に、椎名さんはああいう性格だから「いいんじゃないですか? それぞれが好きなことをやればいいし、私は一人になっても地域猫活動をやるつもりですよ」と飄々と構えていた。
「今更だけど、脇谷くんはどうして地域猫活動を頑張っていたの? 椎名さんや久保みつこ区議は、純粋に猫好きだからって言ってたけど」
「どうしてって。そう言われると、どうしてなんだろう……。頑張っている椎名さんを放っておけなかったし、確かにヨシハラはかわいいし、なにより、僕にはその——」
僕の何てことのない疑問は、脇谷くんの心の深い穴へと落ち込んでいったようで、言うのも憚られるような結論をつきつけてしまったらしいが、しかし彼はまだそれを僕に共有することを拒んでいた。代わりに、脇谷くんも翌日からシロクマの着ぐるみを作るようになってしまった。もちろん、彼自身もお手製の不格好な着ぐるみを着て。
「すごい、本当に正しさが体に染み込んでくるような感覚があるんですよ……ああ、これまでどうして興味のない地域猫活動なんかやっていたんだろう! そうなんです、僕はもともと、地域猫になんて一切興味がなかったんです。ただ僕には、他にやることが、やりたいことがなかった、それだけなんです!」
まだ活動に従事していない大学生たちをドン引きさせながら、必死に彼らをアジテートしようとシロクマ姿で駆け回る脇谷くんには「悪いけど、露骨な勧誘活動は規約で禁じられているよ」と伝えざるを得なかった。僕の発言でかえって火がついてしまったようで、脇谷くんはこれまで見たことのないくらい熱の入った様子で、唾をまき散らし始めた。
「僕たちはむしろ被害者ですよ! 学校では『身の回りの課題に興味を持ち、その解決のために取り組みましょう』なんて言われるのに、僕はどうしても、心の底からそうすることができなかったんです! どうです、僕は間違っている人間ですか? 悪い動機から始めた美しい行動は、悪い行動ですか? それとも美しい行動になり得ますか? 空っぽの動機で始めたシロクマ保護活動は、今すぐ止められるべきですかっ⁉」
脇谷くんはあまりの興奮に、涙すら流していた。それはきっと、シロクマという異装によってようやく彼が解放することのできた、切実な本音に違いないのだろう。正しい若者像にそのまま嵌まることのできなかった若き優等生たちが、誰にも言えないまま抱えていた苦しみ。誰もが椎名さんのように単純な、しかし誰にも折られることのない強度で人生を形作ることはできないのだ。今振り返ると、彼の過剰なZ世代アピールだって、このシロクマ活動と同じく、ただの魂の叫びとして理解できるかもしれない。
「しかし、メルカリであんなものが売れるの? 脇谷くん自身がそれを疑問視していたじゃないか」
「売れるかどうかなんて、どうでもいいんですよ。僕が正しいことをしていて、世間がそれに応えない。そのせいでシロクマは日々飢えて、苦しんでゆく。悪いのは世間であって、僕は常に正しい。それでいいんです。僕が正しくいられさえすれば、シロクマのことなんて本当はどうでもいいんですよっ」
自分のみっともない感情を直視させられて、錯乱状態の中にある脇谷くんが絶叫する。つまり彼は、ヨシハラたちに対する献身ではなく、シロクマを通じた被害者意識の中に安住の地を発見してしまったのだ。永遠に叶わない片思いがメロドラマの中で光り輝くように、彼はシロクマへの片思いを続けさえすれば無限の正しさを与えられることを発見したのだ。
「ほら見ろ、やっぱりシロクマは正しいんだ!」
「ああ、正しいことは気持ちがいいなぁ」
「僕たちはこの正しさの中で、永遠に生きられる!」
「でも、もっともっと正しくありたいなぁ」
「まだ地域猫活動なんてやっている連中がいるぞ」
「脇谷くんは、アジテートに本気じゃないんじゃないか?」
「これはきっと彼の怠慢に違いない」
「裁判をやろう」
「そうさ、正しくない連中は裁判にかけないと」
「あとは椎名さんと、それからヨシハラも」
「そうさ、裁判にかけよう!」
「あいつらがいるから、正しくない活動に人を取られているんだ」
「改心させるか、追い出すかすればいい」
「分かる」「分かる」「分かる」
そうして彼らは翌日本当に、ラウンジに机を並べて即席の人民裁判を始めた。それは恐ろしく奇妙な光景だった。シロクマの着ぐるみ姿の連中がずらりと並んで、事前に召集をかけていた脇谷くん、それに椎名さんとヨシハラを待っていた。
「ずみまぜんッ! 僕ばっ! シロクマに対ずる愛が著じぐ欠けでいだと言わざるを得まぜんッ!」
朝から行われた裁判で、脇谷くんは泣き叫びながら潔く自己批判した。彼にはこの夏休みの間に日本各地の動物園を回り、シロクマへの愛を高めるという刑罰が科されることとなり、それに対してシロクマ軍団の面々からは「羨ましいなぁ」「僕も行きたいなぁ」などとわざとらしい声が上がった。一方で、彼らがどれだけ待ち望んでも椎名さんとヨシハラがそこに現れることはなかった。というのも、僕らが昨日のうちに手を打っておいたから。
「とんでもないことになってきましたねぇ。これはメインチューターとしての職務怠慢が招いたことですよ」
日差し対策にマッカーサーみたいなサングラスをかけて運転席に座る沼田くんが、いつものニヤニヤ顔で責め立てるのに対して、僕は一切の抗弁ができなかった。まったくその通りだ。だから僕はこの騒動を収拾すべくクロスポに残り、念のため椎名さんとヨシハラをここから避難させることを決めたのだった。
「誰のせいでもないですよ。こんなこと、誰も想像できませんから。落ち着くまでは向こうにいようと思うので、状況を適宜教えてください。ヨシハラも、新しい環境にすぐ慣れるといいんだけど」
山中湖畔に椎名さんの実家が所有する別荘があるということで、夏休みの間、彼女はそこに一時避難することになった。昨日の夕方出発する彼女を免許を持っている沼田くんに送ってもらうことにした。
不安げな表情でレンタカーの後部座席に座る椎名さんの隣には、小さなケージに入れられたヨシハラもいた。「変なことに巻き込んでしまってごめんね。すぐに戻ってこられるようにするから」
せめてものお詫びでヨシハラ用の「ちゅ~る」を山ほど手渡して、僕は二人と一匹が乗る車を無事に見送った。その日の夜中には、椎名さんを置いてさっさと折り返してきた沼田くんが「すごい豪華な別荘でしたよ。ヨシハラは車内でずっと大人しくしていて、偉かったです」と、重大なミッションを無事に終えて誇らしげにしていた。
翌日、一人と一匹の不在に慌てふためく脇谷くんたちを横目に、僕たちは傍聴席でこっそりグータッチをしたのだった。沼田くんと僕との間に、奇妙な共犯関係が芽生えつつあった。
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