道尾秀介の描く少年は、哀しみを抱いている。
もっと正確に、いや私の予感であるが“少年たちは哀しみを抱いていることに戸惑っている”。
少年期の群像を描くという作業は作家にとって己を見つめ、筆を進めなくてはならない、残酷なところがある。彼はデビューからの創作の大半を、少年期をテーマに挑んでいる。若い作家が少年期をテーマに書くと、それはいかにも、つい昨日のことを書いているように見えて、一見ラクそうに思われるかもしれないが、それは間違いである。ひとつ、ふたつの作品で、それが自叙伝に近いようなものならばおそらく一作は何とかなるかもしれない。しかしそのひとつでさえ仕上り間近になると、これが小説でありやなしやを問うことになり、作家は失望を味わうのが常である。
ところが道尾秀介の描く少年期はいささか他の作家と違っている。何が違っているのか。私は評論、分析を仕事としていないから明確にここがこうだと言える能力は持たないのでやや抽象の言い方になるが、“道尾秀介の生み出す少年、少女は自分が人間であることに戸惑っている”という印象を抱くのだ。しかもそれぞれの登場人物が、この世の中で一人しかない存在(“君だけの”と言ってもいいが)であるのにその生き方は人間社会の普遍をもつ。これが道尾のきわだった小説家としての器量と才能であろう。
浅草の片隅に、芸者さんがママをやっているちいさなバーがあって、浅草へ食事に出かけた夕などに、時折、その店を訪ねる。
或る夜、店のカウンターに座り、ママの背後にある棚を見ると私のウィスキーのボトルのそばに“道尾”と文字が書かれた酒瓶が見えた。同じ名前の人もいるのだと飲んでいたが、ひとしきり話が済み、話題が途切れた時、ママに訊いた。
「そこのボトルの“道尾”というのは作家の道尾秀介さんということはあるのかね」
「あら、そうですよ。ご存知なんですか」
「はい。存知上げています。私は彼の小説のファンでしてね」
「私もそうなんです」
ママは嬉しそうに笑った。
まぶしい笑顔だった。彼女の少女の頃の姿、表情が浮かぶような気がした。
――そうか、道尾さんは芸者さんにも惚(も)てるのか……。
道尾さんの風情の良いたたずまいが思い出された。
とは言え、私は彼と一、二度しか逢っていないし、逢えば互いに頭を下げ、一言、二言言葉を交わすだけである。風情が良いと書いたが何も作家然としているとか男前ということではなく、作家という者はそこに一人で立っていようが、衆の中にいようが、勤人(つとめにん)とはまるで違うものが漂っている。このことを善い姿と捉えるのは間違いで、むしろ悪しき印象の方が多い。その証拠に、あの人、普通の顔付きじゃないね、という表現は悪い印象であるのが大半だ。
道尾秀介は、勿論、善い方に入る。何が善いのだと思われようが、私の印象では、どんなところに居ても、どんな時でも彼は小説のことを考えている雰囲気が伝わってくる。 それ以外にできない感じなのである。そこがいいのである。
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