数年前、とある友人とこんな会話をしたことがある。
「高校の時に憧れてた彼が、地元に戻ったら、“いいお父さん”になっててショックだった。ちょっと太って、田舎の紳士服店で買ったみたいなコート着て。ほら、よく広告に載ってるような、こたつのマットみたいな生地の――」
ああ、ああいう感じの生地か。そして、彼女とは同郷ではないが、きっとうちの地元でいったらあの店みたいなところで買ったコートなんだろう。
「ショック」と言いながらも、彼女の口調は軽やかで、そしてちらりと悔しそうでもあった。地元で再会したその彼は、おそらく幸せそうだったのだろう。誰かの家の“いいお父さん”をしている彼の妻は、自分ではない誰かで、その家は彼女の家ではない。
バカにするとも、強がるとも微妙に違う、「過去の憧れ」と「ショック」。「地元」という言葉で表現された「田舎」と「紳士服店」。
たわいないこの会話を、それでも何かの引っかかりとともに私はずっと忘れられなかった。だからだろう。宮下奈都さんの新刊のタイトルが『田舎の紳士服店のモデルの妻』だと知った時、私はいてもたってもいられずに書店に走った。
「0年」と書かれた章から、物語は始まる。
主人公、竜胆梨々子は、夫・達郎のうつ病を機に、彼の故郷である町に引っ越すことになる。東京から、何もない「田舎」へ。潤と歩人、二人の子どもを連れて。
出会ったばかりの頃の達郎は、梨々子にとって「光る男」だった。海外営業部のホープで、「閃光」であり「芳香」だった。その光が現実の夫となり、薄れ始めている。そんな日々の中、田舎へ移る。いるもの、いらないものを東京の家で振り分け、息子の幼稚園で一緒になった筒石さんからは、「お餞別」として「十年日記」をもらう。
田舎に移る、ということは、多くの場合「左遷」のような形で語られることが多い。
冒頭の「0年」は、梨々子のこの先10年への予感に満ちている。気の進まぬ田舎行きに、彼女はここから折り合いをつけていくのではないか。日記を綴りながら、きっと、そこでの日々をゆるやかに肯定していくのだろう。派手なことがなくても、自分の居場所と幸福を見つけていくのであろう――。そんな、通り一遍の予感を抱いてページをめくり、そして、「2年」、「4年」と「10年」までの章を読んで、そんなふうに高を括っていた自分の思いあがりを恥じた。
ここには、「折り合い」も「ゆるやか」も、「肯定」も「居場所」も、そんな言葉をまるごと跳ね返して相手にしない、そういう日々と感情がある。そんな言葉ではとても束ねられない、これは竜胆梨々子の物語だ。
本書が単行本として刊行された際、帯にあった紹介文は、「愛おしい『普通の私』の物語」だった。そして、この『普通の私』を、私は無意識に見くびっていたのだ。本の向こうから思わぬ激しさをもって、
――どっこい、生きている。
と彼女から叱られた気がした。
タイトルは「妻」だが、家族内での梨々子の立場は、一般的に言われる「お母さん」だ。お父さん、お母さん、お兄ちゃん、弟。よく見られる、家族構成。
そして、多くの家庭の場合、「お母さん」は、おそらく最初から「お母さん」だ。特に、子どもにとっては物心ついた時からそうだ。
「お父さんの妻」で、「おばあちゃんの娘」。性別ということであれば「女の人」だということを、事実としては知っている。けれど、それがどういうことか、深く考えることはない。「お母さん」という立場で思考が止まり、その「お母さん」が妻として悩んだり、娘として時に立ち止まったり、恋をしたり、という彼女の背景にまで気持ちが及ぶのは、おそらく、仰ぎ見ていた「お母さん」と自分が同年代になってからではないだろうか。
梨々子と、私の年は近い。結婚して子どもがいるという点では立場も近い。しかし、読んでいる間、私の思考と視点は、梨々子の気持ちに寄り添う一方で、一つところにとどまらず、何度も夫や子どもたちに移った。自分が幼かった頃に見た母の背中を梨々子に重ね、気づけない鈍感な夫の立場になって、妻としての梨々子に弁解したくなる。
家族の中で、「当たり前」においしい麻婆豆腐を作ることが期待された妻や母だって、「当たり前」を提供することに葛藤がないとはいえない。
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