デビュー作『姑獲鳥の夏』以来、京極夏彦さんが今日まで書き継いでいる〈百鬼夜行〉シリーズ。このほど刊行された『定本 百鬼夜行 陽』は、シリーズ本編に登場した十人のキャラクターが主人公を務めるスピンオフ作品集だ。大事件の陰に隠れて、スポットの当たらなかった脇役たち。そんな彼らにもそれぞれの人生や秘めた思いがあった。著者はそこにさまざまな妖怪の影を重ね合わせ、鬼気迫る短篇小説に仕上げている。
「シリーズ全体を丸太に喩(たと)えるとすれば、この短篇群は丸太の断面。外側から見ることのできない断面を、切り出して見せているようなものですね。もちろん、シリーズ本編があっての作品ですが、本編を読んでいなければわからないものではありません。シリーズであれ、スピンオフであれ、独立した作品になっていなければいけないと思っています」
全編に共通しているのは、主人公が皆なんらかの奇妙な思いにとらわれている、ということ。「青行燈(あおあんどう)」の主人公・平田は、いるはずもないきょうだいの存在を頭から消し去ることができない。「大首(おおくび)」の大鷹は、エロスをなぜか愚かしさと結びつけてしまう。「鬼童(きどう)」の江藤は、自分を人でなしだと思い込む。これを単なる妄想と片付けられないのは、私たちの心にも、大なり小なり似たような思いが潜んでいるからだろう。妖怪に憑かれた彼らの姿は、人間心理のほの暗い部分を私たちにまざまざと突きつけてくる。
「人間はときに理屈では割りきれないような感情を抱いたり、常識では量れない体験をしてしまったりすることもあります。おおかたはやり過ごしたり、上手に決着をつけることができるんですが、稀にそれができない状態に陥ることがある。そうなると、現実の方をねじ曲げてでも無理に決着をつけようとするんです。そういう時ですよ、人が何かに『憑かれている』というのは」
同時発売された『定本 百鬼夜行 陰』は、一九九九年に刊行された既刊作品の決定版。本書と同趣向のスピンオフ作品集だが、全体を統べるトーンは微妙に異なっている。両者を読み比べてみるのも一興だろう。
「『陽』には火にまつわる作品が幾つか入っています。火や光は陰中の陽。これは暗いところでより光る。そのせいか、話自体はおおむね暗いんですけど、『陽』というタイトルをつけた段階で、じめじめと鬱(ふさ)ぎこむような暗さではなくなったような気もします。人生、暗いなりにもなんとかやっていこう、というか」
稀代の戯作者が紡ぎだす心の迷宮。心ゆくまでご堪能あれ。