ついに橋本忍『複眼の映像』が上梓された。昨年の夏、北軽井沢の別荘におじゃましたとき、持つ手が震える思いで原稿を読んだ興奮は今も忘れられない。あのときは秋にも刊行されるというお話だったが、ご病気のため延び延びになったとのこと。そう、今年四月に八十八歳となった橋本忍は、実は満身創痍なのだ。二十代で「粟粒(ぞくりゅう)性結核により余命数年」と宣告されて以来、「あと三年以上、生きられると思ったことは一度もないよ」とおっしゃっていた。腎臓も一つしかない。しかしその橋本忍が、とうとう黒澤組の脚本家における最後の生き証人になってしまった。だからこそ、ぜひとも書いてほしかった一冊である。
タイトルの『複眼の映像』とは、黒澤組の共同脚本のことである。わざわざ複数の脚本家を擁し(脚本料を人数分かけ)、全員が同時に、しかし別々に同じシーンを書く共同脚本方式こそが、「世界のクロサワ」を生んだ秘密だと、橋本忍は喝破する。いわば、ワンシーンごとに脚本コンクールをするわけだ。この方式がライターに強いる緊張が、密度の濃い、目の詰まった作品群を作り出した。本書で指摘されているとおり、黒澤の偉大さは何より、映画における脚本の重要性を知り尽くしていたこと、脚本家のポテンシャルを極限まで引き出す共同脚本方式を編み出したこと、そしてそれを運営し続けるカウンターパートナーたり得たことにあるのだ。
その黒澤組の脚本家(久板栄二郎、植草圭之助、菊島隆三、小國英雄、井出雅人)の中でも、『羅生門』『生きる』『七人の侍』を書いた橋本忍は、もっとも重要な存在であった。だから本書は、これまで誰にも書けなかった黒澤明論ともいえるのである。従来の類書のような、「天皇・黒澤」を仰ぎ見て賛美する黒澤論ではない。対等の立場で鍔迫(つばぜ)り合いのように書き続け、しばしば黒澤をうならせ圧倒したパートナーが書くのだから、黒澤の強さも弱さも、余すところなく暴かれてしまう。
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私は、『脚本家・橋本忍の世界』(集英社新書)執筆や、勤務先での「日本映画史」開講に向けた取材で、本書で述べられている結論の多くを、橋本から直接お聞きする機会に恵まれた。中でも仰天したことは、故・野村芳太郎が「黒澤作品のうち、『羅生門』『生きる』『七人の侍』はないほうがよかった」「黒澤明は橋本忍と出会わなければ、ビリー・ワイルダーにウィリアム・ワイラーを足して二で割ったような、(技巧と力強さを兼ね備えた)監督になったはずだ」と言ったことだ(本書では二二六、二二七頁)。怪物のような脚本家と合作しての成功が、黒澤をしてその後の監督人生を、本来進むべき方向とはちがった場所へと迷い込ませてしまった、結局その重圧から逃れられなくなってしまった、ということなのか。確かに私たちの世代(昭和三十年代生まれ)は、黒澤明の新作には裏切られ続けたという気持ちがある。名画座で『生きる』や『七人の侍』を見てきて、そのイメージで封切り作品を見ると、とんでもない落胆を味わわされる。しかし野村芳太郎の解釈は、そうした謎に一つの解を与えてくれるかもしれない。読者はそんなドキドキするような発見を、本書の随所で味わうことになるだろう。
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そもそも映画史における脚本家の位置づけは、不当ともいえるぐらい低い。『白い巨塔』は山本薩夫、『日本のいちばん長い日』は岡本喜八の監督作品だと知っている人の中でも、脚本が橋本忍だと言い当てられる人はそれほど多くない。ところがテレビドラマの世界はまったく逆だ。『新選組!』は三谷幸喜、『功名が辻』は大石静が書いていると知っているが(三谷・大石の顔も新聞や雑誌でしょっちゅう見かける)、演出しているディレクターが誰だか知らない。昔から不思議に思っていた。
ところが橋本によれば、戦前は映画の世界でも、脚本家の位置づけは非常に高かったそうだ。「一スジ(脚本)、二ヌケ(映像)、三ドウサ(演技)」(マキノ省三)という有名な言葉も伝わっている。報酬もそれに比例していた。だから橋本も脚本家を志したのだ。そう考えてみると、日本映画の黄金時代である昭和二十、三十年代に定着した「監督の名前で映画を見る」という映画青年たちの習慣は、むしろ一時的な現象なのかもしれない。
その黄金時代を代表する脚本家は、間違いなく橋本忍である。だとしたら私たちはもっと、「橋本忍の世界」とは何だったのか、再検討しなければならない。本書は、そのための第一級資料である。
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