2014.09.27 書評

歴史の裏通りをひた走った
久坂玄瑞の生涯

文: 小林 慎也 (元朝日新聞西部本社学芸部長)

『花冠の志士 小説久坂玄瑞』 (古川薫 著)

 古川薫さんが『漂泊者のアリア』で第百四回直木賞を受賞したとき、取材をはじめ、さまざまな席で感想を聞いた。

「最初の候補は昭和四十年。四分の一世紀をこの賞と歩いてきた。やっと重荷を下ろしたというのが、正直な感想です」

「郷土に少しは貢献できたでしょうか」

「今回ほどつらかったことはありませんでした」

「文学はマラソンのようなもの。これからもマイペースで」

 それぞれに、実感にあふれた発言だったが、なかでも一番印象に残ったのは、自分の文学人生をマラソンにたとえたところだった。前年暮れ、ホノルルマラソンに参加、八時間かけて完走したのを受けての感慨であったろうが、妙に胸にしみた。

 私が初めて古川さんにお会いしたのは、文筆で一本立ちした昭和四十五年の直前だから、もう二十年を超えてお付き合いさせていただいている。仕事を抜きにして旅をしたこともあるし、古川さんを中心に集まる下関の文化人グループ「長府村」の一員にも加えてもらい、花見などを楽しんできた。素顔もけっこうのぞかせてもらったし、本音も聴かせてもらった。伴走者ほどに近くなくても、応援団の一人ではあったつもりだが、「マラソン」に託した自身の心境の吐露には、私には見えなかった古川さんの思いがこもっている気がしたのだ。

 マラソンに必要なのは、体力、精神力、持続力などだろうが、何より孤独に耐えなければならない。孤独に耐えながら走ってきた二十五年の時間は他人の想像など及ぶものではないだろう。

 古川さんに接してきて、いつも敬服するのは、人間の総量の大きさである。月並みだが「大人の風格」がある。とにかく懐が深い。余裕を感じさせる。政治、経済、社会、芸術から、多彩な趣味まで、独特の話術で語って、尽きることがない。しかも、抜群の視野の広さとバランス感覚がある。新聞記者の先輩でもあるから、新聞記者の経験が下敷きになっているとも思いたいが、それを遥かに超える。そんな古川さんの魅力にひかれて、人が集まる。人付き合いもいい。それでも、「ランナーの孤独」を抱えていたのだ。いや、マラソンには、こうした人生の奥行きの深さが不可欠なのかも知れない。

 古川さんの大きさの秘密はもうひとつある。古川さんがはぐくみ、積みあげてきた史観、歴史感覚、歴史認識だと思う。現在の現象を把握するのに、歴史という「時間」と「経験」の総体をきちんと裏打ちしている。視野の時間空間が宇宙の大きさを持つからだろう。それが、歴史小説を書くことに、つながっている。とくに、明治維新を中心にした地元長州の歴史に題材を得た小説を得意にすることにも、関連しているはずだ。

 最近のある講演会で、古川さんは自らの文学の出発を語って「私は歴史の裏通りを歩くのが好きだった」といっていた。なぜ、裏通りなのだろう。マラソンの比喩をもう一度使わせてもらえば、文学がマラソンと似ているように、歴史の営みもマラソンにたとえられるのではないだろうか。一人一人がある時間を駆け抜けてゆく。それぞれのゴールをめざす。同じ時代を生きて、競争が激しいレースもある。勝者もいれば、目立たない走りの人もいる。落伍したと見える場合もある。裏通りを走る人は、どちらかといえば、トップ集団の人ではない。しかし、歴史は勝者も、一見敗者と見えるランナーたちもひっくるめて存在する。むしろ、裏通りを走る人達のなかに、歴史の真実がある。そうした認識が古川さんの史観にあるのではないか。そして、もっとも典型的な例として、明治維新のゴールをめざしたランナーたちのドラマがある。そう思いたい。

 日本の歴史でもっともドラマチックな転換期は、明治維新である。これをゴールと仮定すると、めざしたランナーたちは多いが、完走してゴールを通過したものは限られていた。大半は到達することなく、奔流に呑まれた。

 ここでとりあげる久坂玄瑞も、まさにその一人である。

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花冠の志士 小説久坂玄瑞
古川薫・著

定価:本体660円+税 発売日:2014年09月02日

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