2012.06.07 書評

いまの私が守りたいもの

『“あの日のそのあと”風雲録』(林真理子 著)

私にとって雑誌はお城のようなもの

 あの日から、もう1年も経ってしまいました。

 遠い昔のことのようだけど、記憶ひとつひとつが妙にはっきりとしていて、不思議な気分です。そして私の物書き、作家としての価値観が大きく揺さぶられた1年でもありました。

 2011年3月11日。私は新橋演舞場で歌舞伎を観ていました。あ、地震だ、でもそろそろ収まるだろう、と思う間もなく揺れが大きくなり、どよめきが観客席にごーっと響きました。観客の動揺を抑えようとしたのか、舞台上の(尾上)菊五郎さんと(中村)吉右衛門さんはしばらく演じ続けていました。また、観客も高齢の方が多かったからか、パニックになることもなく、落ち着いて行動していました。

 演舞場の外に出ると、壊れている建物もなく、大きな被害はないように見えました。ただ、交通機関はストップ。タクシーも瞬く間に空車がなくなり、あわてて購入したスニーカーを履いて、1時間以上歩いて家に帰りました。友達からのメールも続々と届きます。その時被災地でどんなことが起きていたのか何も知らないままに、「私たち、この日に何をしてたかって、これからずっと話すことになるんだろうね」なんて、お気楽なことを言い合っていました。

 その後、目を覆うようなニュース映像に接し、絶句し、涙を流しました。予定していたニューヨーク旅行も中止し、旅費を義援金に充てました。それでも、東京の人はできるだけ普段と同じ生活をしなければ……、そう思って、震災の数日後、夫と近所のお寿司屋さんに行きました。このことが後に大問題になるとは予想だにしませんでした。

 また、福島第一原発が、深刻な状況にあるとわかったのもその頃でした。最初はそれほど危機感もありませんでしたが、事情通の男友達の話で、私は一瞬にして凍りつきます。

「ハヤシさん、もう日本は終わりです。○○さんも△△さんも東京を脱出してる」

 大企業の会長や有名人の名前を挙げ、しきりに関西行きを勧めてくるのです。1日に何度も、現在進行形で「危険だ、危険だ」と連絡が入る。私はその言葉に怯え、普段ではありえないほどの早さで荷物をまとめ、嫌がる娘の腕を引っ張って新大阪行きの新幹線に乗り込みました。ホームは西に行く人で溢れ返っていて、映画『宇宙戦争』のような光景。日本もこれで終わりかもしれない、そう思いながら、関西のホテルにしばらく“避難”していたのです。

 ところが、数日すると秘書のハタケヤマからとんでもない電話がかかってきました。

「ハヤシさん、ブログが大変なことになっていますよ!」

 一瞬何が起こったのか理解できませんでした。どうやら私がお寿司を食べに行ったというブログ記事に非難が殺到し、今にも“炎上”しそうだというのです。このことは後に、ヤフーニュースに載るほどの騒ぎとなりました。

「今、関西にいることは絶対に誰にも知られないようにしてくださいね。ネットで何を書かれるかわかりませんよ!」

 ハタケヤマの言葉に、ハッとしました。

 そうか、私は“逃げた”のか、と。

 物書きとして、東京に、日常にとどまり、見たこと、感じたことを書き記すことを放棄したのだ、と。

 このときほど自己嫌悪に陥ったことはありません。

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“あの日のそのあと”風雲録
林真理子・著

定価:1260円(税込) 発売日:2012年03月16日

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