2013.08.23 書評

『恋しぐれ』解説

文: 内藤 麻里子 (毎日新聞社編集委員)

『恋しぐれ』 (葉室麟 著)

 本書は歴史小説であり、切ない恋ごころ、さまざまな愛の形を描き出した恋愛小説の傑作といえよう。

 葉室流恋愛小説の先行作品としては、本書に先立つこと三年、二〇〇八年に単行本が刊行された『いのちなりけり』がある。

 しがない藩士・雨宮蔵人が、名家・天源寺家に婿入りすることから物語の幕は開く。婚儀の夜、妻となる咲弥に「自身の心だと思われる和歌」は何かと問われるが、答えられないまま藩内の政争に巻き込まれ出奔。二人は離ればなれになって流転し、水戸藩と柳沢吉保の対立に巻き込まれながらついに再会を果たす。かねて懸案の和歌を咲弥に捧げる蔵人。歴史に翻弄されながら一途な愛を貫くドラマチックな純愛物語だ。

 ひるがえって今回の『恋しぐれ』は武家社会の歴史のダイナミズムから距離をとり、市井の人間模様を短編で描いているだけに、そこにあるのはどこか身に覚えのある近しい恋愛だ。

「夜半亭有情」は与謝蕪村の隠された恋の話。最近よく見かける男がいるという謎めいた滑り出し。蕪村は老いらくの恋の相手小糸に心奪われており、ふと男の顔に小糸を見、縁者ではないかと推測する。しかし実は、かつて一時恋の炎を燃やした相手美和との間にできた息子だった。好きになるタイプは一緒というやつだ。自身も忘れていたような恋の記憶と、幸薄い息子の末路が二重写しとなり、美和の哀れさが胸を突く。

 ただ、私は女性だからか美和を忘れていた蕪村に納得できない。大学時代の友人のことを思い出す。友人は父親が死に、財産分与の時「念のため」と隠し子の有無を調べた。あに図らんや、認知した異腹の兄がいた。父親は何も言い残してはいなかった。そんな身に覚えがないとも限らない男性読者にとって、このシチュエーションは後ろめたさや慙愧の念と共に、ときめくものがあると思うのは邪推だろうか。それを女性側からは、「身勝手」と呼ぶ。作家はすべてを承知して、蕪村にそんな自分を「鬼」と言わせた。この一言が救いであり、物語の余韻を支えている。

「春しぐれ」は、蕪村の娘くのと佐太郎の幼い愛が、下女のおさきと仁助のただれた愛のあつかましさの前になすすべもなくつぶされてしまう。今の時代、幼い恋は皆それなりにし、痛い目にも遭うけれど、そうそう人生の取り返しがつかないまでのことはない。くのは十四で嫁ぎ、離縁になった。五年後に義父だった柿屋伝右衛門と再会させ、当時の事情を明かすことで取り返しがつかない結果となった未熟さを救っているのは、作家のやさしさではないだろうか。

 葉室麟さんが歴史文学賞を受賞した『乾山晩愁』でデビューしたのは二〇〇五年。五十歳を過ぎていた。『恋しぐれ』が刊行されたのは還暦を迎える年だった。このときのインタビューで、「六十年くらい生きてしまうと、人生の大半のコーナーは見えてしまう。そのうえで書く落差はあるのかな」と語っていた。意味するところは、「若い頃は夢を見たい。けれど六十代になると、夢なんかないぞと知ったうえで、あえて夢を書く。ないと知っているからこそ書けるものはある。その場合は、純粋な形で提供できる。だから恋愛の美しさなら美しさという形で純粋に出せる」というのだ。酸いも甘いもかみ分けた人が紡ぎだす恋愛物語からは、また同時に人生の苦味、人それぞれ精一杯に生きる姿が率直に伝わってくる。

 大魯が登場する「隠れ鬼」は、人生の苦味を強烈に感じさせる。元は武士だったが、妻子がいながら遊女と駆け落ちし、藩を追放される。俳諧で身を立てかけた矢先、一門で問題を起こす。和睦の宴でも、反省するつもりが険悪になるばかり。怒りにまみれた失意の日々から目を覚まさせたのは、偽りの恋の相手、あの時の遊女が蕎麦を売り暮らす姿だった。〈「わたしは、いままで世を恨み、ひとを憎んで生きてまいりました。しかし、ひとが日々努力し、おのれの命を全うしようとする姿こそが美しく、愛おしいのだ、と思いました」〉。続いて、これが夜半亭の俳諧だと大魯に語らせているが、人が生きる意味そのものがこの言葉に凝縮されている。そしてこの言葉にこそ、短編集を貫く太い芯があると見たい。

 これを受けて蕪村は〈「大魯はいままで隠れ鬼をしておりましたが、ようやく戻ってきました」〉と、このうえなくやさしい。ここに蕪村と作家の共振を見る。というのも葉室さんは収録作中、この大魯が好きというからだ。「だめさ加減が自分と重なる。俺もこうだったよなとかね」と笑っていた。元地方紙の記者という経歴を持つが、きっと仕事はできるが自分を曲げられない不器用な記者だったのではと拝察する。この大魯に共感する読者もまた多いだろう。

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恋しぐれ
葉室 麟・著

定価:599円(税込) 発売日:2013年08月06日

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